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秀吉の【醍醐の花見】を「醍醐寺の花見」で想像する [日記・雑感]

京都に住んでいるときは行けなかった「醍醐寺の花見」にやっと行くことができました。年度末が迫った3月30日土曜日に大阪から出かけました。これで3回目の参加となる京都女子会の企画です。


かの豊臣秀吉が慶長3年(1598年)に催した【醍醐の花見】を、およそ400年後に、同じ場所で想像してみるということはとても心揺さぶられるものです。



JR山科駅に到着後、すぐ近くの地下鉄東西線山科駅から醍醐駅まで、そこからは醍醐寺まで緩やかな傾斜の坂道を13分ほど歩きます。高台に向かって歩んで行くという感じでしょうか。左右はまだ新しい団地かマンションのような建物群があり、それを過ぎると戸建の住宅がやはり左右に並びます。醍醐寺内にある三宝院のパンフレットには徒歩13分とありますが、初めて通る坂道のせいかもっとかかったような気がしました。以前住んでいた伏見区の周辺は平地でしたが、同じ伏見区ながら山というより小高い丘に位置していると感じました。今回は、山科駅で10時集合、お昼は山科駅に連結したホテルでビュッフェランチというプランのため、名物の桜見物と世界文化遺産の三宝院、それに京都府下最古の五重塔などを見て回るだけのコースでした。醍醐寺はそもそも山岳道場として開創された上醍醐と上醍醐への往来としての「基地」としての下醍醐に分けられる。三宝院も五重塔も下醍醐の方である。醍醐寺の全体図を見ると、1日がかりでもとても見切れる広さではなかった。京都一級ガイドのお馴染みの武井氏の案内付きですから、他の気になるエリアは次回に回すとしましょう。



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醍醐寺の総門をくぐると、その近く、左方にどこまでも枝を張り出した見事な桜がありました。その枝の隆々とした力強さに圧倒されます。誰もが我も我もと写真を撮ります。敷地内に700本(記憶では)もある色々な種類の桜があるとか。一斉に咲くというより、時期をずらしながら咲いて行くようです。今の桜の木々は秀吉の時代の孫に当たるそうです。和歌で「 花 」といえば、桜を意味するほど、日本人にとって桜は特別な存在です。赤でもなく、白でもない、ゆかしげにほのかに薄い桃色の花は、人の心に淡い情感や癒しを与えます。この情感を味わえるのは、日本人に生まれた【醍醐味】でしょうか。


受付を過ぎ表書院に入り、建物の中から金箔(今も本物を使っているのでしょうか?)の豪華な唐門を右手に見ながら三宝院の庭に目を見張ります。

京都市内のいくつかの有名な名園は見てきましたが、久しぶりに見たせいか、これほど手を入れて創り上げられた庭は初めてのような気がしました。後から武井氏が下さった醍醐寺の案内パンフレットを見ると、「特別史跡及び特別名勝は、国宝級で、京都では、金閣寺、銀閣寺とこの三宝院だけ(原文通り)」とあったので、さもありなんと改めて思いました。

三宝院は、1115年に第14世座主・勝覚僧正が開いたがあの応仁の乱で焼失。庭は秀吉自ら縄張りして再建したという。この庭には木の橋、土の橋、石橋の三種の橋が配置され、その橋を船を浮かべて巡り、なんと三宝院の建物の下をくぐり、茶室の前の水際で停止するのである。なんと風流なことか!



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「醍醐の花見」は権勢を誇る秀吉が我が世の春、と言わんばかりに花見の大宴会を開いたのだろう、ぐらいの想像をしていたが、実は2年前の「伏見の大地震」で亡くなった人たち(女性たち)への供養、生き残った人たちの癒しというメンタル面でのケアと共に、地震で破壊された道路やその他の工事、大変な痛手を受けた西陣織産業の復興を目的としたものだったと初めて知り、びっくりしました。


大地震で伏見城関係で亡くなった女性は300人といわれるが、ガイドの武井氏によると500人以上はいたとのことだった。秀吉は亡くなった女性達への供養、生き残った女性達への、今で言うメンタルケアの為に、上は大名の女房から下は女中衆まで総勢1300名の女性だけを花見に招いたと説明を聞き、驚いてしまった。それ程大勢のきらびやかな女性達が居て、男は秀吉、秀頼そして他のものは唯一、あの前田利家だけの3人だけである。 並み居る大名、家臣の中で1人前田利家だけ招くとは、それだけ秀吉にとっては心を許した人物だったのだろう。史実はやはり知らないままでは薄っぺらいものになってしまう。


一方、男衆はどうしたのだろう? 以下は武井氏の書かれたパンフレットから引用する。

【醍醐の花見】は、秀吉が実施した【北野大茶会】と双璧をなす、一世一代の大イベントだった。秀吉配下の諸大名などの男衆は、伏見城から醍醐寺までの沿道(5.5キロらしい)の警備や会場に設営された七つの路地茶屋の運営に当たる裏方となった。


女御の着物の手配は、薩摩の島津義久に命じ、女御は3回着替えたので、3900組の着物が準備された。(現在のお金に換算すると、39億円相当)………女性達を着飾らせるだけでなく、痛手を被った西陣織の産業復興の支援となった。



【醍醐の花見】は1598年4月20日に催された、秀吉は秋にも【もみじ狩り】をする予定だったという。しかし、彼は同年8月18日に63才で亡くなった。



今回の醍醐寺での花見は、見事な桜の咲きぶりや枝の力強さに見惚れつつ、為政者秀吉のスケールの大きさを知り、秀吉も堪能した醍醐寺の名庭三宝院で桃山時代の遺産を味わうことができました。



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