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windy

日本語字幕について思う ー その1 [映画]

2月13日に産経新聞の『産経抄』を読んだ。



日本で外国映画を字幕で見るようになった最初は「モロッコ」だという。あの脚線美で有名なマレーネ・ディートリヒが主演の映画だ。年間数百本の外国映画はほとんど日本語字幕付きで、戸田奈津子さんはおそらく日本で1番有名な字幕翻訳家だろう。その戸田さんによれば、「正確さ、タイミングなどどれをとっても日本の字幕技術は世界一」だそうだ。面白いことに、それは声優の巧みさでも日本が世界一だと芸能関係の記事で読んだり、聞いたことがある。



歴史、文化、はたまた社会の成り立ちのあい異なる2つの言語の橋渡しと言える字幕には、大きな大きな壁や制約が立ちはだかる。これは確か戸田さんの記述か、テレビで彼女が話したことだが、洋画の画面の下のテロップに数秒出る言葉の数は極々わずかに限定されるという。しかも、その数は昔に比べると字数が減っているという。日本人の日本語を理解する能力が年々、あるいは世代ごとに落ちてきている現れだろう。(正確な秒や字数を忘れてしまったのが残念だが)



私自身の経験で振り返ると、十代、二十代の頃は確かにテロップに次から次に出てくる字数は多かったと思うし、それなりに当然のごとく理解もしていたと思う。その時代人によって、画面と字幕を同時に見るのが面倒で、と話す人もいた記憶がある。単なる自分の感覚では、平成の時代に入った頃から言葉数が少なくなったのではないかと勝手に想像している。



私の個人的な考えでは、日本語は世界で1番語彙が多い言語だと思っている。去年の前半だったか、日本文化チャンネル桜の番組、ジャーナリストの高山氏と歌手のSaya さんの2人の番組で、日本語と英語のことが話題になっていた。そこで1番印象に残った話は、国際通の高山氏が、「日本人が英語を習得するのが苦手と思っていたり、いわれたりするが、そもそも日本語を英語の方に転換、変換しようにもそれに当たる言葉や語彙が少ないからだ。」というような趣旨のことを言われたことだ。日本は長い歴史や文化を持ち、人々がほぼ単一民族で同じ言語を共有し育み、練り上げ、長い時間軸の中で語彙数を膨らましてきた。


そうだ!(笑い) そうなんだ!大方の日本人がこんなに英語下手なのはこれも原因だったんだ!と思えたことは新しく面白い発見だった。



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カーク・ダグラスー往年のハリウッドスターの訃報に接して [芸能やエンターテイメント]

2月5日、ヤフーニュースで往年の米俳優、カーク・ダグラスの訃報を知った。


数年前に出たFacebookで、彼が長生きしているのは知っていたが、103才(1916年生まれ)だったというから文字通り長寿を全うされたのだと思う。


この知らせでまず頭に浮かんだのは、『 The Ragman's Son 』(邦題: 屑屋の息子) という本の題名であった。急いで部屋の中から探して見ると、カーク・ダグラスの自伝と言えるこの本は1988年に初版が出ていた。この本の紹介にも書いてあるように、映画スターの自伝はゴーストライターが書いているのがほとんどだが、この本は彼自身の言葉でじぶんの人生を語っていることで当時評判になった。こう私が言えるのも、1988年当時、購読していた(日本の)新聞の書評を読んで,何を思ったかわざわざ原書を取り寄せたからである。その頃は、今のようにインターネットの時代ではなく、無論アマゾン注文もなかった。原書であるため、手元に届くのにかなり待った薄い記憶がある。


*題名の屑屋の息子とは、カーク・ダグラスを指している。父親はロシア系ユダヤ人で、なんと日露戦争への徴兵を逃れるためにアメリカに移民として移り住んだのだった。一家はニューヨークの貧民街で暮らしていた。物語はそこから始まる。


本のことばかりになってしまったが、私にとってカーク・ダグラスはアメリカの超有名な俳優、活劇やアクション映画で活躍した有名な俳優という認識で、印象に残る映画としては、「スパルタクス」(1960年) 、「炎の人、ゴッホ」(1956年) 、「テレマークの要塞」それと、題名が思い出せない西部劇の映画である。これらは、やはり彼の代表作、ヒット作と言え、長きに渡ってハリウッドで活躍したので他にも有名な作品は数多い。


彼には前妻の子、後妻の子として2人ずつ計4名の息子がいて、1番日本人にも有名なのは、同じくハリウッド俳優のマイケル、ダグラスである。



私はこの『屑屋の息子』を実は全部は読んでいないが、印象的なエピソードはずいぶん前のことなのに今でも覚えている。自伝だから当たり前のことだろうが、彼は実に色々なエピソードを書いている。


年数を経てまだ覚えていたことは2つのエピソードです。

1つは子供時代(読み返すと彼が8才の頃)、家の近くで水の溜まった大きな深い溝に誤って落ち、溺れかけたことがあった。その時遊び仲間だったのだろう、ウォルフィーという子が泳げないにもかかわらずカークを引きずり上げてくれた。彼はそのことを決して忘れずに、長年に渡って彼にお金を送り続けたという話である。ウォルフィーはびっくりしていたとある。


もう1つは、いきなり飛んでしまうが、本の最後の最後にあるエピソードです。

本を書き上げた当時のカーク・ダグラスは既に40年もハリウッドに君臨し、街を歩いてもどこでも人から声を掛けられるのに慣れていた。ある日、とびきり美人でブロンドの背の高い若い女の子に声を掛けられた。彼女はジャカランダの花の色をした瞳で惚れ惚れしたように見上げてこう言った。「 まあ! マイケル・ダグラスのお父さんですね!」


原書には数多くの写真があり、それぞれにちょっとしたコメントや説明が添えられている。ピックアップされているものだけに、これらを読むだけで彼の人生のハイライトや人となりが分かるような気がします。

この本は彼の二番目の妻、最愛の妻アンに捧げられている。

原文によると、

『私自身よりイッサール(カーク・ダグラスの本名)のことを知る妻、アンに捧ぐ』とある。


上記の言葉からも分かるように、彼がアン・バイデンスという良妻に恵まれ、白寿を超えた長寿を全うしたことは彼が有名人だとか成功者だとかいう枠を超えて幸せで豊かな人生を歩んだ証の1つだと言えるでしょう。


遠く離れた日本にいるものの、彼のご冥福を祈ります。






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