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「 KISS 」のジーン・シモンズはバリバリの実業家だった! [芸能やエンターテイメント]


連休中、5月5日19時から21時まで、NHK BS1で 「 ザ・ヒューマン SP 」が放映された。

タイトルは、【 KISS に独占取材! 悪魔の素顔99分完全版 】で、途中からしか見なかったので残念だったが、ジーン・シモンズのこれまで知らなかった意外な側面というか本当の素顔が分かり刺激的であった。


ジーン・シモンズ( KISS のメインボーカル )の本当の顔は、単なる人気の高いロックスターではなく、というか、したたかな大実業家であることが分かった。その事を取材でもろに見せてくれた番組だった。彼は何の衒い(てらい)もなく、自分のビジネスのやり方、成功を語る。


いわゆるスターの豪勢な邸宅にカメラを入れ、「 ほら! 」と別室に案内した時に唖然となった。そこには自分たちのグループ【 KISS 】のありとあらゆるイメージキャラクターやデザインされたグッズの山があった。その一つにはKISSのデザインが施されたバイクまであった。


自己資産は370億だと言っていた。 ギャフン〜 ! 見ているこちらは生来貧乏人のせいか、彼が知略に長けたビジネスマンというより、抜け目のない商売人に思えるのはひがみのせいだろうか?
しかし、番組が進行していくうちに、彼がビジネスにも精力的であり続けた生き様はさもありなんと言えることが明かされる。


番組は時系列通りではなく、彼の十代の頃のエピソードが語られるかと思えば、46年間の音楽活動を飾る最後の引退のワールドツアーで来日中の彼の言動を追っていく。



私自身はロックグループのKISSのファンではないが、ロックスターの素顔には興味がある。興味本位に言えば、あのアクの強い厚化粧の下のすっぴんの顔がのっけに現れ、何と年齢が70才の年相応の顔立ちが現れた時はびっくりだった。きつい言い方をすれば、この特異な厚化粧にカモフラージュされてKISSはロック界で生きながらえたのだろう。勿論、かのローリングストーンズのように、老齢とはっきり言える年齢になってもファンやステータスを獲得しているスターもいるが、番組の中でも、KISSが一時このメイクを中断しノーメイクで演奏していた時期はほぼ人気が衰えたと言っていた。



その後再び同じメイクで復帰して人気を盛り返して行ったらしいが、トータルで46年間も活動を続けられたことは、ファンでもない私も驚いてしまう。


1970年代、メイク(日本の歌舞伎にヒントを得たとの話も聞いたことがある)や衣装も含めた特異なキャラクター、度肝を抜くステージでのパフォーマンス等、まさにユニークさがあったから固い支持層を持ち続けたのだろう。



2018年に92才で亡くなった最愛の母親フローラはホロコーストの生き残りだった。ジーン・シモンズは芸名で、ユダヤ人の本名を発音していた時に、ユダヤ人としての彼の生まれ育ちやアメリカに移住してきた人生経験がいくらか私なりに想像が出来た。



今や大金持ちの彼は、一人息子であった少年時代に初めて自分で稼いだお金のエピソードを語っていた。(イスラエルにいる頃)ある山に登って、手に棘がささりながらサボテンの実をかき集めて下山して、夕方勤めから帰る途中の人に一個0.5デーツで売ったことだった。売り上げた後帰宅して母親にお金を差し出すと、「 小さな立派な男 」と喜んでくれた。その時初めて、自分でお金を得る喜びを味わったと語っていた。


この時の経験が着火点となり、その後の人生でも、彼は常に働くこと、常にお金を稼ぐことを目標にして行ったようだ。アメリカ人が発音しにくいユダヤ名を分かりやすいジーン・シモンズにしたのもKISSのグッズを出す際に必ず商標を取るというのも、彼にとっては数多くの戦略の一つなのだ。



番組の後半で、行きつけなのか?日本のあるレストランの主人にビジネスへのアドバイスを求められた時、強く、きっぱりと、「いいか、これの商標をとれ、明日取るんだ!取らなかったら、俺が代わりに取るぞ 」と言い放った。 やはり、これほど権利(取得)意識がないと彼ほどの実業家にはなれないのだと認識させられた。

ある場面では、直近の売り出しのシャンペンを各店の店長らしき人たちを集め、滔々とそのシャンペンのキャッチフレーズを語り、販売促進の意識を高めていた。もはやロック歌手の姿はなく、実業家、ビジネスオーナーの面目躍如といった雰囲気だ。

如何に目を配りつつ働き、如何にお金を得ていくかに彼の集中力は向けられていく。正直いって、お金に淡白だった私などはその熱さに当てられるような気がしたが、彼を知るマネージャーのしょうげんによれば、元いたスタッフの窮状に対し援助したり、匿名で慈善団体に寄付したりしているそうで、取材の移動中も、携帯からある重病のファンらしき人に話しかけエールを送っていた場面があった。


飽くなき実業家と見える中にも他人や団体への援助をすることで、この人物はバランスを取っているのかなと思った次第である。


連休中、興味本位で見た番組であったが、これはKISSのファンにとってというより、実業家、ビジネスを目指す人にとってとてもヒントを得る、刺激的な番組であった。





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カーク・ダグラスー往年のハリウッドスターの訃報に接して [芸能やエンターテイメント]

2月5日、ヤフーニュースで往年の米俳優、カーク・ダグラスの訃報を知った。


数年前に出たFacebookで、彼が長生きしているのは知っていたが、103才(1916年生まれ)だったというから文字通り長寿を全うされたのだと思う。


この知らせでまず頭に浮かんだのは、『 The Ragman's Son 』(邦題: 屑屋の息子) という本の題名であった。急いで部屋の中から探して見ると、カーク・ダグラスの自伝と言えるこの本は1988年に初版が出ていた。この本の紹介にも書いてあるように、映画スターの自伝はゴーストライターが書いているのがほとんどだが、この本は彼自身の言葉でじぶんの人生を語っていることで当時評判になった。こう私が言えるのも、1988年当時、購読していた(日本の)新聞の書評を読んで,何を思ったかわざわざ原書を取り寄せたからである。その頃は、今のようにインターネットの時代ではなく、無論アマゾン注文もなかった。原書であるため、手元に届くのにかなり待った薄い記憶がある。


*題名の屑屋の息子とは、カーク・ダグラスを指している。父親はロシア系ユダヤ人で、なんと日露戦争への徴兵を逃れるためにアメリカに移民として移り住んだのだった。一家はニューヨークの貧民街で暮らしていた。物語はそこから始まる。


本のことばかりになってしまったが、私にとってカーク・ダグラスはアメリカの超有名な俳優、活劇やアクション映画で活躍した有名な俳優という認識で、印象に残る映画としては、「スパルタクス」(1960年) 、「炎の人、ゴッホ」(1956年) 、「テレマークの要塞」それと、題名が思い出せない西部劇の映画である。これらは、やはり彼の代表作、ヒット作と言え、長きに渡ってハリウッドで活躍したので他にも有名な作品は数多い。


彼には前妻の子、後妻の子として2人ずつ計4名の息子がいて、1番日本人にも有名なのは、同じくハリウッド俳優のマイケル、ダグラスである。



私はこの『屑屋の息子』を実は全部は読んでいないが、印象的なエピソードはずいぶん前のことなのに今でも覚えている。自伝だから当たり前のことだろうが、彼は実に色々なエピソードを書いている。


年数を経てまだ覚えていたことは2つのエピソードです。

1つは子供時代(読み返すと彼が8才の頃)、家の近くで水の溜まった大きな深い溝に誤って落ち、溺れかけたことがあった。その時遊び仲間だったのだろう、ウォルフィーという子が泳げないにもかかわらずカークを引きずり上げてくれた。彼はそのことを決して忘れずに、長年に渡って彼にお金を送り続けたという話である。ウォルフィーはびっくりしていたとある。


もう1つは、いきなり飛んでしまうが、本の最後の最後にあるエピソードです。

本を書き上げた当時のカーク・ダグラスは既に40年もハリウッドに君臨し、街を歩いてもどこでも人から声を掛けられるのに慣れていた。ある日、とびきり美人でブロンドの背の高い若い女の子に声を掛けられた。彼女はジャカランダの花の色をした瞳で惚れ惚れしたように見上げてこう言った。「 まあ! マイケル・ダグラスのお父さんですね!」


原書には数多くの写真があり、それぞれにちょっとしたコメントや説明が添えられている。ピックアップされているものだけに、これらを読むだけで彼の人生のハイライトや人となりが分かるような気がします。

この本は彼の二番目の妻、最愛の妻アンに捧げられている。

原文によると、

『私自身よりイッサール(カーク・ダグラスの本名)のことを知る妻、アンに捧ぐ』とある。


上記の言葉からも分かるように、彼がアン・バイデンスという良妻に恵まれ、白寿を超えた長寿を全うしたことは彼が有名人だとか成功者だとかいう枠を超えて幸せで豊かな人生を歩んだ証の1つだと言えるでしょう。


遠く離れた日本にいるものの、彼のご冥福を祈ります。






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T-BOLAN のボーカル森友氏語る・・・北九州市小倉でのコンサート [芸能やエンターテイメント]

ひな祭りの3月3日、身内に用事があり、電話するもののなかなか出てこない。やっと夜10時過ぎに着信があった。

「今日はコンサートに行っていた」とのこと。「何の?」 「 誰の?」と聞くと、TーBOLANと言う。
日本のグループには詳しくない私でも、「ああ、あの、every day ♪, every night ♪のバンド? 」と聞き返した。

この日、北九州の小倉で、【TーBOLAN の30周年ライブツアー、「the - Best」~ 励】があった。
身内の女性は、コンサートでのボーカリスト、森友嵐士さんが話したことを伝えてくれた。

今回のコンサートは、何と1995年にT-BOLAN が活動中止をして以来25年ぶりという。「えーっ!そんなに経つの!」とびっくりする。身内の彼女は電話越しに笑いながら、「うーん、森友さんの元の奥さんか彼女のこと(ここでは書かないが)で色々あって、声が出なくなったんよ。」「 で、コンサートではまるっきり声は出ていた? 問題なく歌えてた?」との問いには、「 うん、ロック調の歌は大丈夫だったけれど、バラードの歌はちょっと声が出にくいようだったね。」と教えてくれた。一応彼女は、25年位前から自分の趣味でボイストレーニングを受けているから、その言葉は信用できるだろう。

その先の話が印象的だった。


森友さんがコンサートの途中で所謂MCで、活動休止に触れつつ、ベーシストの上野博文さんのことを語ったそうだ。T-BOLAN は中心のボーカリスト森友さんの声が出なくなると言う異常事態で活動休止、解散となったのだが、同じグループのメンバー上野さんは、5年前にくも膜下出血で倒れたと言う。その時一人暮らしだったのか、5日間誰にも発見されず放置されていたらしい。常識的には、そこで終わりだったのに、発見後手当や手術を受け、コンサートに元気に出ておられるその手術では、頭蓋骨を開頭し、中の脳みそまで取り出したと言う。当たり前だが、その後脳みそを再び戻して頭蓋骨をはめて接合したことになる!現代の医学はそこまで進んでいるのか!びっくりした。


彼女の話では、上野さんはステージで普通に歩き演奏されていたらしい。


この話は冒頭にあるように、3月3日の夜の話だが、折しも、8日金曜日の夜7時、MBS放送『 爆報THEフライデー 』の番組で紹介された。


番組では、【 1990年代のロッカー、クールでイケメン 】というフレーズで、森友嵐士さんが現れた。新聞の番組欄では、【Tボラン森友が失声症で田舎暮らし】と載っていた。


現在山梨県富士見市に在住で、普通に地元のスーパーで買い物をしている姿が出ていた。庶民派に変身!とかテロップが流れる。


そのまま番組での紹介を書くと、1994年に異変が起き、突然声が出なくなる。本人も医者も原因が分からず、5年後に【心因性発声障害】と診断が下される。

理由として、① ヒット曲を作り続けるプレッシャー
② プライベートの悩み
があったという。


T-BOLAN 解散後、結婚し、長男が生まれたとあるから、状況も変わり徐々に精神的に落ち着いていったのでしょう。長年患った失声症は、自分の持ち歌でなく他人の歌を少しづつ練習することで回復していったという。やはり、それなりに努力されたのですね。往年大いに活躍したT-BOLAN の再結成のきっかけは、先述の上野さんの手術後のリハビリ入院中、彼が言った「 もう一度みんなでライブをしたい」の言葉だったという。森友さん、メンバーたちに流れる友情に温かいものが感じられた。


人生には、生死を分ける出来事が色々起きる、一人一人の生を全うするにはそれぞれのドラマがあるのだと思い知らされる話だった。


何はともあれ、私は身内のようなファンではないが、T-BOLAN の活躍を応援したいと思う。







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曽野綾子氏、夫三浦朱門を『徹子の部屋』で語る [芸能やエンターテイメント]

私の好きな曽野綾子氏が『徹子の部屋』に出ていて、思わず聞き入ってしまった。


このとき驚いたのが、夫三浦朱門氏の意外な素顔と人柄だった。それと同時に、曽野氏の物事に拘らない有りのままに事象を受けとめる、感謝に満ちた姿勢に胸を打たれた。


夫三浦氏は、去年91才で亡くなられた。夫婦は作家同士で63年間を共に連れ添ってこられた。曽野氏は最近、『夫の後始末』というかなり衝撃的な書名本も出されていて、私はまだ読んではいないが、徹子氏によるとしんみりした話というより彼女独特のユーモアが滲んだ面白い本らしい。それは徹子氏に語る話ぶりからも想像できる。

曽野氏が高齢の夫を家で介護し、最後は入院して息を引き取られた経緯を『(日本の)国民の1人として幸せな最期だったと思います』と述べられた時、今まで世界の貧しく、あるいは戦乱を被り不穏な地域をあちこち見て来た人ならではの実感と心からの感謝に満ちた思いがこちらに伝わってきた。

『(三浦は) 近所の方のご親切に守られて一生暮らしましたね。』という言葉にもそれが十分溢れ出ていた。



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22才で結婚した曽野さんは、夫、夫の両親、実母、そして息子も入れて『一つ屋根の下に、ゴソゴソと暮らしていた』『このゴソゴソという言葉がなんとなく好きなんです』と言われる。そこにはほのぼのとした家庭の営みが感じられ、改めてその飾らない人柄に触れた思いがした。日頃知的で人に媚びない物言いをする人だと思っていたが、作家業や公的な地位や活躍を考えると、そんな家族構成の環境でどう切り盛りしておられたのか益々興味が湧いてくる。


三浦朱門氏は普段から家庭でも面白いことを言う人だったらしく、忘れ物をして続けて二階に上がっていく曽野氏に向かって、『頭がボケると、体は良くなる』と返したエピソードを番組で披露した。


徹子さんはなんとあけすけに、『大変な作家だから、文化庁長官もなさって、ちょっと面倒臭い方かなと思ったけれど』と言うと、豈図らんや、『全然、面倒臭くない(人です』と即答した。実生活の三浦氏は私から見れば如何に好ましい人物であったかがわかった。平成23年に同じく【徹子の部屋】に曽野氏が出演した際、三浦氏は『疲れたなーと思ったら、(ジェスチャーで両手で山の形を作り)こんなにお茶碗を積み上げたまま寝ちゃう女房が好きなんだ』と言った例を挙げ、三浦氏は寛大で、いい加減で、怠け者な性格だと『本当にそうなんです』と強くはっきりと言われる。私の経験では、そういうタイプの人には多分これまで会ったことがないので、そういう男性と結婚できた曽野氏が本当に羨ましく思えた。曽野氏を最初の頃出版やメディアで見かけたときは、知的で清楚な方である反面、何事もきちんとしなければ済まない硬い性格かなと思っていた。その後テレビ番組で見聞きする機会が出てくるにつれ物事に執着しないあっさりとした人だとわかっていった。そういう女性だから、三浦氏のようなやはり寛大な人物と引き合わされたのだろうか?ともあれ、三浦氏の臨終の際、病院側から『何か最後に聞いておきたい言葉は?』と問われると、もう今までに十分色々な事を話していたので特別にありませんでした、とさらっと言われる。こういう夫婦が世の中にいるというだけで救われる気がする。相性なのだろうか?双方の努力なのだろうか? 神のみぞ知る、である。



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【 両親のこと 】
曽野氏の両親は随分後になって離婚され、曽野氏は万才!という気持ちを持たれたほど離婚に賛成だったのが分かる。実父は嘘のつけない狭量な人で反面教師だと言いつつも、父の後(世話)を見てくださる方がいたというので感謝したと言われるから、両親は60代を超えて離婚し、その時は『万才!』と喜んだと言う。以前、どこかで、十代の頃両親の不和で随分苦しんだと読んだことがあった。そういう親とはいえ、ちゃんと心を尽くされる方だと思った。父と別れるに当たって心配する母親には、『いい加減にすべて捨てていらっしゃい』と言って自分の家に引き取られている。物やお金に執着しないで受け入れる人柄なのだ。



【 夫の死後の生活・・・夫のへそくりで猫を買う 】

夫の遺品を整理していたら、へそくりの12万円が出てきた。それで田舎のホームセンターで猫を買った。夫は滑稽なことが好きな人だったら、『こんな下らないことによく使ったなぁ』と多分喜んでいるだろうと言う。

なんでも話せるお友達とのおしゃべりタイムが好きだけど、それだけではないんです。お料理も好きなんです。本は読むのに追いつきませんからね。議題を追求するような、例えば、トランプ大統領の【炎と怒り】などああ言うのをよく読んでいます。三浦が死んだ時もコンピュータに向かって物を書いた、とのことだった。

息子(三浦太郎氏)は関西に住んでいるので、今は猫二匹と暮らしている、と現在の暮らしを語られた。



【書くこととは・・・ 曽野綾子氏の人生観】

『書くこと』 は呼吸するみたいなこと。
前述のように、夫が亡くなった時もパソコンに向かって何か書いていた。

『持病もあるし根性も悪いし、目も悪いんです、それで欠損もあって曽野綾子という人間が出来ている』や、番組の中で、『衰えていくなら衰えていくのも、人間の一生だ』という言葉があり、人間という存在や人生に対する達観が番組を見終わっても清々しい余韻を残してくれた。

曽野綾子氏は確か今86才で、まだまだ現役活躍中の方です。そのことと合わせて、女史の人生で積み上げて来られた人生観と実際の生き方が、特に高齢化社会を生きる人に『人生の処し方』を教えてくれる。


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京都発、字幕翻訳家・戸田奈津子氏、トム•クルーズ他3名との交友を語る ー その② [芸能やエンターテイメント]


戸田さんがハリウッド俳優との交流の一番手に挙げたのは、40年来の友人【リチャード・ギア】でした。彼は敬虔な仏教徒という一面を持つ、知的でスピリチュアルな人柄だと伝わってきました。

戸田さんのお話は続きます。以下はその要約です。( )内は私の言葉や補足です。

2番目に紹介するのは、【ロビン・ウィリアムズ】です。彼は元々スタンダップ コメディアンとしてキャリアをスタートしたように、2時間もアドリブで話せるコメディアンです。天才的な人、生まれもってのエンターテインナーです。とにかく頭の回転が速くアドリブを連発します。皆さんが知っているように、数年前にあんなことになりましたが……、(とちょっといいよどんで) (彼は2年前に自ら命を絶ちました。) 何度も家族(5人)で来日しました。元々サンフランシスコ出身の人で、死後数ヶ月してサンフランシスコで追悼式があり、自分も招かれていきました。友人、仲間が集まっての本当にいい式だった。お友達もやはりコメディアンの人が多かった。明るく笑いのある集まりだったが、最後はみんな泣いていた。(戸田さんは別のテレビか雑誌で、ロビン・ウィリアムズほど人柄の素晴らしい人はいないと言っていましたが、本当に周囲に人々に愛されていた方なのだと聞いていて感じました)(戸田さんは自殺の原因には触れませんでしたが、「人には寛大な人、自分には厳しかった人」と評されたのが印象的でした)



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3人目は、名優、【ロバート・デニーロ】です。彼こそ名優中の名優です。非常に競争の激しい映画界の中を生き抜いていくというのがどんなに大変なことか!ハリウッドの世界を目指す俳優の卵たちにアンケートをとると、男性なら10人中9人がデニーロのような俳優になりたいと答え、女性なら、10人中9人がメリル・ストリープみたいな女優になりたいと答える。それほどデニーロは俳優の 卵たちの憧れ、目標になっている。彼は今までの作品を見ると、極端に走る役が多いが、実際はそうではない。彼のことで、いかに先入観や予備知識で付き合ってはいけない、と思い知った。(ここは強調されていたので印象的でした)

デニーロは、スコセッシ監督が「レイジング ブルー」の映画を撮った時に初めて日本に来た。その際は、スコセッシ監督、デニーロ、あと一人有名な俳優(正確な名前が出て来ません)から成る、スコセッシ一家(スコセッシが親分)で 行動することがあった。京都の四条のパチンコ屋で 3人が興じているなんて、彼らを知る人が見たらなんとも豪勢な感じだったことでしょう。その7年後(5,6年前)、いきなり自分(戸田氏)に連絡が入り、来日するから箱根に行きたいと要望があった。これには驚き動揺したが、多分、ロビンから私の連絡先を聞いたのでしょう。この時は仕事ではなく、プライベートの旅だった。いろんな手配やらで大わらわになったが、だいたい彼らあたりになると、プライベートジェット機でやってくるため、予想以上の数十の荷物を箱根まで一緒に移動しなければならず、その荷を運ぶ車の手配だけでもとても苦労した。(デニーロも何度か結婚している人なのか)今の奥さんの子供が3人いて、京都に来た時、子供達がどうも忍者をみたいというので、太秦(映画村)に連れて行った。1つのコーナーでいかにもアマチュアっぽい芝居をやっていたので、「あなたは見ないでいいです」なんて必死で説得して、デニーロは一人車の中で本を読んで待っていた。



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ここまで戸田さんのお話を聞きながら、あらあら、肝心のあのお方が出てこないのはなぜ?と思っていましたら、さあ、やっとお待ちかねの【トム•クルーズ】の話になりました。

4番目となりましたが、締めはやっぱり【トム•クルーズ】です。

【リチャード・ギア】は知的な親日家、【ロビン・ウィリアムズ】は、天才的コメディアンであり人格者、【ロバート•デニーロ】は名優中の名優、すると【トム】は何でしょう?
彼は「映画作りに命をかける人、大変な努力家」だそうです。あのキアヌ・リーブズが主演の47士をモデルにした映画は時代考証もへったくれもない実にアホらしい作品だと戸田さんは言う。ここまではっきりけなされるとは、この映画は観ていないものの、相当な駄作のようです。それに比べると「ラストサムライ」は日本人が観ても恥ずかしい思いをすることのない出来栄えだと評価される。「ラストサムライ」の主演であり、プロデューサーでもあるトムが日本人俳優たちの意見も十分に取り入れたせいで、日本人が見ても時代考証も満足できる作品になったという。これはひとえに、兎に角少しでもいい作品を作りたいというトムの意欲、情熱のなせる技だという。


あの「トップガン」時には22歳だったトムも今や57歳である。今年11月にもまた来日予定があるそう。彼は、「遥かなる大地」の頃から来日した。日本は大好きだし親日家ではあるが、リチャード・ギアタイプの親日家ではない。その時その時、毎回の作品事に情熱を傾けるタイプで、日本での作品や役目が終わると、次に他の対象物、対象国にグッと集中していくタイプで同じものに固執しない人。

あの「 ミッション インポッシブル」シリーズの直近の作品でいうと、スタントマンでもいいところを人任せにせず、必ず自分でやりきってしまう。映画のシーンの中で、円周型のプール、しかもとても流れの速い水の中を6分半も潜った。潜水の専門家の指導を受け、なんと心臓の心拍数を変えるという技を体得してシーンを撮ったという。

映画のみならず、その映画のキャンペーン活動においても同様に超人的なスタミナです。1日で、勿論プライベートジェット機を使ってだろうが、朝早く7時にロンドンでレッドカーペットの上を歩き、その足で12時にはパリのレッドカーペットに、夕方はニューヨークにいる、という殺人的スケジュールです。去年の夏は、歌舞伎町で延々と2時間半もの間笑顔を振りまきキャンペーンをやったという。その日は37度だったが、外の照り返しで実際は40度はあったそう。見ているこちらは心配で、さあ、水は?せめておしぼりでも? と気が気でなかったが、頑として水一滴も取らなかったという。曰く、「スターは汗などかいてはいけない」らしい。

戸田さんは、トムのプロ意識に圧倒されていました。

以上、戸田さん曰く、古くて親しい俳優たちとのなんとも羨ましい交流ですが、数回重ねて言われていたことがあります。 これら4人のトップ俳優たちに共通して言えることは、皆一様に、人間的に素晴らしいし、とても謙虚である、威張ることは一切ない、気持ちのいい人、ということでした。

いつかテレビでなく生の戸田さんのお話を聞きたいという願いが今回叶い、とても嬉しいです。多分80才を超えておられるはずですが、とてもにこやかでソフトな品のいいレディでした。シルバー色の大きな腕輪が特に素敵な装いでした。

戸田さん自体がとても旅行好きな方ですが、これからも京都にプライベートでも、また著名な俳優たちとのお仕事でも来られることでしょう。その場面に遭遇できたらラッキーです。


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京都発、字幕翻訳家・戸田奈津子氏、トム・クルーズ他3名との交友を語るーその① [芸能やエンターテイメント]

今月、9月16日、京都市の《ロームシアター京都》で 【京都創造者大賞2016】授賞式がありました。その記念講演に字幕翻訳家・戸田奈津子さんがゲストとして招かれ、特に親しい友人達、ハリウッド俳優4名との交友エピソードを直に聴ける機会がありました。

会場は思ったより小さめで、中央寄りでいちばん前列に座ると、目の前には、この大賞の選考 委員会の委員長を務める裏千家前家元の千玄室氏、山田京都府知事、門川京都市長等錚々たるメンバーが着席しておられ、ちょっと身が引きました。メインの授賞式は、予定通り2時に始まり、各部門の表彰があるためたっぷり3時近くまでかかり、司会者の簡単な紹介の後、待ち望んでいた戸田さんの登場です。


最初に、「アートには直接関係がなく、私でいいのかなと思いますが……」と切り出され、「今日は、古く親しい4名の俳優について、京都に関わるエピソードを紹介します。」と語り始められた。ハリウッドの有名俳優、リチャード・ギア、ロバート・デニーロ、ロビン・ウィリアムズ、そして最後は矢張りあのトム・クルーズの話でした。

戸田さんは言うまでもなく、日本で一、二を争う字幕翻訳家ですが、映画人、俳優たちの来日時の通訳は趣味でやっていて、これまでに千人くらいは会っていると言われます。その人が長年の友人4名を取り上げ、ここ京都で話をすることを踏まえ、京都でのエピソードを語ると言われるので興味深々でした。


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⑴ 最初に挙げた俳優は、ちょっと意外でしたが、リチャード・ギアでした。

彼ら俳優は、アートに携わる人たちなので、美しいものを見る目があり、普通の人以上に理解していると思う。京都がどんなに愛されているか感じます。

リチャード・ギアは1980年に初めて京都に来た。1980年といえば、「アメリカン・ジゴロ」で名を売った時です。その後は彼とは家族ぐるみで付き合っている。最近もメールを送ってきてくれた。あれからもう40年近くも経ったのよ、信じられないとお互いに言った。彼は10年前結婚しました。デビューした当時、自分に迷っていて、禅を勉強していた。大学では(なんと)哲学科専攻だったし、知的なものに関心がある人。きょうとでは、人の多い清水寺とか銀閣寺とかでなく、人の来ない静かな庭のあるところ、わび、さびのある所が好きでよく行く場所(寺)がある。最初あるところを訪れた際、【I was here.】と呟いたので、最初は「えーっ!?」という感じで直ぐには意味がわからなかったが、「自分は前世に此処にいたことがある」という意味です。ある意味、実は日本人だと考える人です。


彼のお気に入りの場所は、【龍安寺】、【桂離宮】、【 ○○○】の3つです。(3つ目は聞き取れませんでした) 例えば龍安寺では、石庭を見て1時間ほど黙っている。桂離宮では、写真を撮りまくっている。モノクロのいい写真を撮ります。毎年、クリスマスカードをいろんな写真の寄せ集めで作り、それを送ってくれる。ある苔寺は、写経をしないと庭に入れないのだが、リチャード・ギアがそこの庭の出口近くにいつも瞑想をすると決めている狭い一角があり、じっと一人で長い間過ごす。(戸田さんは彼の自宅にも行ったことがあり)ニューヨークにある敷地に、何処からどう持ってきたのか苔が敷いてあった。それをとても大切にしていて、家族であれ、誰であれ、苔に触るな?というほどだという。


(私も以前彼に自伝を少し読んで知っていましたが) リチャード・ギアは仏教徒に改宗していて、戸田氏曰く、「彼は完全に仏教徒です。」毎日朝夕のお勤めをし、年に一度はダライ•ラマ14世に会いにインドに行き、修行している。

京都に来た時もよく仏像を見に行くそうで、ある骨董屋のおじいさんとは通う内に親しくなった。お客さんが有名なアメリカの俳優だとは知らないおじいさんは、リチャードの知識の深さに「よく知ってますなあ!」と感心するほどだった。そのおじいさんは数年前に亡くなられたとか。


次に紹介されたのは、以前テレビでも戸田さんがその人格を褒めておられたロビン・ウィリアムズです。次回のブログで書くことにします。


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スコセッシ監督、遠藤周作著「沈黙」を映画化••••••キリシタン史跡【鈴田牢】 [芸能やエンターテイメント]

ネット上で、ハリウッドの有名なマーティン•スコセッシ監督が遠藤周作著の「沈黙」を映画化し、いよいよ今秋11月にアメリカで公開することを知り、驚きとともに、嬉しさと期待がじわじわと湧いてきた。

おぼろげながら、6,7年前だろうか、同監督が「沈黙」の映画化に動き始めたというニュースを、やはりネット上で知り、とても興味を惹かれたのが蘇ってきたからだ。その後暗礁に乗り上げたというか、何が原因なのか立ち消えになり、がっかりした覚えがあった。監督は本気だったのですね。「タクシードライバー」などの作風からは、宗教や信仰の苦悶と監督のイメージが結びつかず謎に思えたままだった。

今回、ネット上で検索しているうちにその謎が少しずつ解けてきたように思える。マーティン•スコセッシ氏は風貌から予想していたが、両親が共にイタリア人移民のイタリア系アメリカ人でニューヨークのリトルイタリア育ちらしい。遠藤周作氏はこの本「沈黙」を1966年、つまり50年前に書き上げた。スコセッシ氏は、今から25年前に読んだという。何と少年時代はカトリックの司祭になる道を目指していたという。 あるウェブサイトでは、【牧師】と書いてあったが、これは誤りだ。なぜなら、両親はカトリック教の大元のイタリア出身だから。牧師という名称はプロテスタントの用語です。
兎も角、司祭、神父という職業を選ぼうとしていた人にとり、「沈黙」を続ける(かのような)神、信仰に生死を賭ける究極の場面は胸に迫るものがあるはずです。


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ウィキペディアを読んでいくと、特に3つのことが意外でした。
① 司祭(神父)の道を目指していた(前述の通り)

② 黒澤明を初め、溝口健二、今村昌平、小林正樹監督の影響、感化を受けていること
黒澤明の映画「夢」には、ヴァン・ゴッホの役で出演していた程黒澤ファンだったのですね

③ イザベル・ロッセリーニを含めて5度も結婚歴があること
***イザベル・ロッセリーニはあの有名なスウェーデン女優 イングリッド・バーグマン の娘です


映画の配役には、ベテラン俳優のリーアム・ニーソン、アンドリュー・カーネーギー 、日本からは、ハリウッドには馴染みとなあっている浅野 忠信、若手の篠塚洋介という豪華な出演者が揃っています。その他の脇役にも、どんな役者が配されているか、今から日本での公開が楽しみです。その前に、1971年製作の篠田正浩監督の「沈黙」をレンタルビデオで見ておきたいと思います。どういうわけか公開当時見ていなかったのが惜しまれますが、そのせいか当時のこの映画に対する評価もほとんど記憶にありません。スコセッシ監督がこの映画を観たのか興味のあるところです。


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この映画に対する期待感が湧いてくると共に、原作者の遠藤周作氏のお話を一度聴いたことを思い出しました。1977年か1978年に、主催者も講演のタイトルもすっかり忘れていますが、逆算すると遠藤氏が54,55才の時でした。1966年にすでに「沈黙」を出版されていましたが、小説の題材の隠れキリシタンの里, 長崎(外海地区)によく来られていたようで、講演の中でも長崎という土地柄を気に入って盛んに褒め持ち上げられていたので、これは半分は社交辞令かなとちょっと割引して聴いていたことを覚えています。没後、平成12年5月、ご遺族の意向もあり、上記の外海地区に「遠藤周作文学館」が開館されたことを知った時は、遠藤周作氏と長崎の深い縁を感じました。

講演当時は、シリアスな作家というよりは狐狸庵先生というニックネームを持った作家としてとても人気がありました。成る程、話がユーモラスで時には笑いながら楽しく聴いた雰囲気を覚えています。余談ですが、遠藤周作氏のほかに、女流作家の杉本苑子氏、豊田穣氏のお二人も同じく講演され、それぞれに聞き入りました。


「沈黙」の中では、信仰とは何か、そもそも神とは何か、神と人間との関係は? という根源的な問いがあります。信仰する者にとって、しかも指導する立場の神父にとって、願いが目に見える形で聞き届けられないことが、むしろ人間にとって幸いなのか? 絶望なのか?
•••神は呼べども答えず、沈黙のみ。
•••信仰は時には自分の人生どころか、生命さえもかけないといけない時がある
•••神の沈黙に主人公はどういう生き様を選ぶのか?


遠藤周作氏は多分調べておられたでしょうが、スコセッシ監督は外国人宣教師やキリシタン達が閉じ込められていた牢屋の跡が長崎県大村市の郊外にキリシタン遺跡の1つとしてあることをご存知でしょうか?それは【鈴田牢】といいます。この地を含む大村藩は元々はキリシタン大名の治めるところでしたが、江戸時代の初め、キリシタン禁令によりキリシタンの迫害、処刑が行われたところです。この【鈴田牢】のあった場所は鈴田川が大村湾に交わる河口付近で、今でも小高い山、白い鳥が降り立つ川、波の無い穏やかな海面が一望に見渡せる、実は私のお気に入りの場所です。現代でさえこんなに自然の美しさが味わえる風景ですから、ちょうど4百年前は、どれほど素朴で海、山が感じられたことでしょう!車や電車で通る時はじっと目をこらす風景です。この美しい風景の一区画に、ほんの一部分にキリシタン達が5年間にわたり閉じ込められていた牢屋が存在したとは!このアンバランスと違和感、非情な事実に驚かされます。


この【鈴田牢】にまつわる話はかなりあるため、別の機会に回したいと思います。キリシタンの歴史に興味がある方、今回のスコセッシ監督の映画を観られる方など、興味のある方は是非【鈴田牢】跡地を訪ねて見られたら如何でしょうか?


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風間トオルさんの極貧時代••••••••自著『ビンボー魂』を読んで [芸能やエンターテイメント]

芸能人は、幼少時代や若い頃、家庭的にも経済的にも恵まれず非常に苦労した人が多いと昔から聞いています。風間トオルさんは、デビューした時からの爽やかなイケメンぶりや明るい笑顔が印象に強く、まさかこれ程まで両親との縁が薄く、貧困どころか極貧を味わい尽くされた方だとは想像もしていませんでした。2010年,【徹子の部屋】で辛い経験を通り過ぎたように貧乏を自然体で語る姿は観ていたのですが。

この「ビンボー魂」を手に取ると、10年ほど前にやはり同じ芸能界のお笑いタレント、田村 裕さんが出版した「ホームレス中学生」の内容が蘇ってきました。田村さんの場合は、或る日突然家が差し押さえられ、帰ってきた父親のあの「解散!」宣言で、その日から兄と姉共々、弟の裕さんがホームレスになるという、まるで交通事故にあったような衝撃的な展開からはじまりました。

さらにこの「ホームレス中学生」より10数年前には、お笑いタレント、島田洋七さんの少年時代の極貧時代を描いた「佐賀のがばいばあちゃん」が初出版されていました。佐賀の田舎で、小さな川の上流から流れてくる野菜をすくい上げて大事に食べたりと、洋七さんの母方の祖母との二人きりの生活ぶりがその後映画化され、じっくりとユーモラスに語られていたのを思い出します。


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参考までに、これら3つの本を3つの点からまとめました。フィクションではなく【実体験】というところが共通点です。

風間トオル 著 「ビンボー魂」
① 初出版 : 2016年 3月20日
ちなみに、私が購入した時点、8月で、4刷でした。

② 極貧時代 : 5才から高校1,2 年生で部屋を借りる迄(11,12年間)
③ 本を書いたきっかけ : 2010年 【徹子の部屋】で初めて生い立ちを語る
その後の反響の大きさから(中でも明石家さんまさんから「キングオブ
貧乏」などと取り上げられる)
内面的なことでは、「あとがき」にあるように、過去に蓋をせず観察
をすることで両親を許せ、自分を解放できたからカミングアウトした
と書いています


(麒麟の)田村 裕 著 「ホームレス中学生」
① 初出版 : 2007年
② 極貧時代 : 中学 2年 1学期の始業式の日から1ヶ月間
③ きっかけ : これが書かれているものは未だ見つけていません
多分、自分の特異なホームレス体験を周囲に語ることで書籍化を勧められた
のでしょう


島田洋七 著 「佐賀のがばいばあちゃん」
① 初出版 : 1987年
② 極貧時代 : 高校進学までの8年間の少年時代
③ きっかけ : 貧乏暮らしのエピソードを聞いたビートたけしが書籍化を強く勧めた

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「ビンボー魂」は5才の時の母親との別れから始まります。好きな男性が出来た若い母親と父親との間でどちらを選ぶか聞かれた風間さんが、子供なりに必死に考えて父親を選んだというよりも、自分を可愛がってくれる父方の祖父母や叔父さんの存在をより強く感じ、父側についたというところに切なさを感じました。そのとき別れた母親の温もりも顔さえも覚えていないという。これは過酷な出来事を消し去りたいという心のなせる技でしょうか。
母親のいない寂しさを振り切るためにーーー僕はお母さんに捨てられたわけではない、僕がお母さんを選ばなかっただけだ、と思うようにしたとありますが、小さいながらに心の強い人だったんだと感心しました。試練はさらに続き、ほどなくしてなんと今度は父親に新しい女性が出来、父は家から出て行きます。まるで一家離散の状態の中でも、いつもと変わらず元気に過ごせたのは、飄々とした楽天的な祖父母の性格のお陰だと言います。「いいことも悪いことも過去は過去でしかない。大事なのは今日を生きるために必死になること」と幼い時からずっと思ってきたそうです。

本文には、祖父母の僅かな年金だけで暮らす極貧生活の具体的な例がたくさん語られています。
•切り傷は唾で治す
・虫歯はペンチで抜く
• ひもじい時は草花やカマキリなどの虫も食べていた
・ 認知症になった祖父の介護を4年もした

などなど数多くの体験が語られています。
これほど無い無い尽くしの生活だと心も折れ、グレるのではと思いますが、風間さんに言わせると、グレるためのお金、余裕もなかったと言います。

読者としてはつい笑っちゃうのですが、アパートの部屋には浴室もなく、銭湯に行く余裕がない時は、屋外の洗濯機に真冬であろうと水を張り、服を着たまま固形石鹸を握りしめ洗濯機内に体を張り付けた状態で、スウィッチオン! これだと服も体も同時に洗えて一石二鳥!とあります。

貧乏なことで一番辛いことは、空腹なこと、ひもじいことだと言います。前述の草花や虫、他にもこれはと思うものを試食?していく風間少年のサバイバル生活には圧倒されます。11,12年間も続いた極貧生活で身についた人生哲学には、
【目標を達成するための方法は、一つではない】
【幸せに生きていくための方法は、一つではない】

風間さんには、次の祖母の教えが一番の原点になっています。「貧乏だと人は悪いことをしてしまいがちだけど、そこをぐっと堪えることが大事なんだ」これは、のちの「お金に支配されたら負けだ」という教訓になったそうです。

両親の事も許せ、父親とは交流しているとのこと。ただ、母親とのその後の再会はできなかったようですが、『オーラの泉』出演の際、江原さんからお母さんが見守っていますよ、と言われ、素直にそうであったら嬉しいなと思ったそうです。

【あとがき】の中で、風間さんは、【人生で一番大切なことは、コミュニケーション力だ】と、【すべては、人が作り出すもの。僕はそのためにコミュニケーション力を最大限に活かしてこられたような気がするのです】と締めています。

最後の言葉、
【どんなに感謝してもしきれない亡き祖父母に………。ーーーーーありがとう!】には、涙が溢れました。


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BS放送『林修・世界の名著』 「人間の絆」を小野正嗣氏と語る [芸能やエンターテイメント]

『林修・世界の名著』は、毎週木曜日に林氏がゲストを招いて一冊の本を語り合う番組です。
今回は6月23日(木)の朝刊で、本の題名がサマセット・モーム著『人間の絆』だと分かり、見過ごさないようにしました。


ゲストの小野正嗣さんのことは全くどんな人か知らなかったのですが、後からネットで見ると芥川賞を取った作家で新聞記事で見ていたのか見覚えのあるお顔でした。


先ず、林氏はこの長編小説を何と20回読んでいると知りびっくり!5回と言ってもすごいと思いますが。この本は彼の青春時代とダブルものがあるということで、興味も湧きました。主人公のフィリップの幼い頃から30才頃までの成長を描いたいわゆる教養小説ですが、私にとっても青春時代に本の面白さにはまった一冊と言えます。番組の中で、4冊の文庫本となっているように見受けられましたが、私が読んだ高校三年時には、あれは岩波文庫でしょうか、新潮社でしょうか、それ以上の冊数の文庫本を次々と貪るように読んでは買っていったのを覚えています。ベージュ色の表紙にピンク色の帯が付いたもので懐かしい思い出です。家は豊かではなくこれと言ってお小遣いは貰っていなかったので、その都度数百円?ほどもらっていたのでしょう。ともかく読み始めると、年齢もかぶり、自分より一足先に青春時代や成人を生き抜く若きフィリップの人生経験、彼を取り巻く人間関係に惹きつけられていきました。林氏は、主人公が足にちょっと障害のある、コンプレックスを持つ点で共感を覚えられたとか。いつの頃からか肥満コンプレックスを持っていたと告白されます。この本との出会いによって余りに自己投影され影響を受けられたのか、主人公が青春を翻弄される悪女ミルドレッドにそっくりの女性に、やはり出会って翻弄された経験を小野氏に語るところは、番組の中でのハイライトでした。小野氏はこの本を読み、印象付けられたことで、林氏がそういう人物や事象を引きつけたのだと解説されたところでは、成る程面白い解釈で、小説家らしい言い方だと思いました。しかしながら、林氏がミルドレッド似の現実の女性に一時期翻弄されても翻弄され尽くさなかったことは本の効用だと自覚され、小野氏もそれを認めておられたのは同感です。さらに付け加えれば、林氏は、フィリップのように若き頃投資で大きな失敗をした苦い経験があり、正にこの本はじぶんの青春時代をなぞることができる、ある意味味わい深い教訓となっていると思われます。しかし、改めて言いますが、同じ本を20回読む林氏の丁寧な読書力、根気には感心します。

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このお二人の軽妙なやり取りを見ながら、何十年もの前の十代の私の当時の生活や、受験期の最中この本に嵌った心情を思い出して淡い感傷を味わうことができました。授業中、少しでも早く家に帰って話の先を読みたいと夢中になっり、自分とは異性のフィリップが人生や女性に揉まれていく有様に様々な感情を抱いて読み進めていった自分が蘇ります。


コンプレックスを持たぬ人などいないでしょうが、何らかのコンプレックスを抱え人は生きていきます。家庭環境、学業、人間関係、特に異性関係の問題、自立のための経済問題、フィリップがこれらにどう向かい対処していくのか、あるいは対処できないかは自分の人生と照らし合わせると実に興味深いものがあります。


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今回の番組では全く触れられていないことですが、余りに遠い昔に読んでいて、正直本の中のいろいろな場面、描写は浮かばなかったのですが、ある1つのことが浮かび上がってきました。それは主人公フィリップが絵画を学んでいた時に知り合った若いスペイン人の青年のことです。その青年に対する描写を読んでいた時、フィリップの、いや作者のモームの嗜好というかある種の性癖を感じたのです。いわゆるホモセクシャルな傾向を十代の私でも確かに感じ取ることができました。青年の描写にまるで恋人を描くような熱っぽさが感じられたのです。記憶違いかしれませんが、モームには確かその傾向があったやに記憶しています。余談ですが、少年、青年に限りますが、確かに西欧人の中にはそうなるのも自然かなと女性の私でも容易に思えるほど、
女性のように、あるいは女性以上に鑑賞に耐えうる美しい男性が現にいます。


さてさて、長編の物語の最後、フィリップはそれまでにあった女性とは対極にある明るく溌剌とした健康美人を選んでハッピーエンドを迎えます。 作者モームは当初ハッピーエンドの予定にするつもりはなかったようですが、女性の読者の要望に応えてこの終え方にしたと読んだ記憶があります。こうした結末に現実になるかは別として、読者、特に女性としてはこういう締めくくりがあるとほっとして本を閉じられるのも事実です。

この番組の副産物として、小野正嗣という作家の存在を知ることができ、芥川賞受賞時のインタヴュー記事から中々面白そうな人だと思いました。機会があれば、彼の本も一冊読んでみようかと思います。


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世の中の美男・美女 [芸能やエンターテイメント]

今日、何気に「毎日夫人」という月刊誌を手に取ってみると、最初の1ページ目に諏訪哲史氏のコラム「うたかたの日々」がありました。【ドロンと雷蔵】というタイトルに目を惹かれて読むと、美男優の話でした。そこで筆者は第1位に、「サムライ」と「帰らざる夜明け」の作品を挙げてアラン・ドロンを絶賛しています。「ドロンは確かに甘すぎるが、生まれてから僕が見た中で最高の美貌であることは間違いがない。古今東西を通じて、彼を超える美しい男を僕はこれまで見たことがない。」(本文のまま)
この文章に私なりの違和感を覚え、これまでに会ったり遭遇した美形の男性たちのことが頭に浮かんできました。人はそれぞれ、諏訪氏も断りを言われているように、自分の好みや感性は違います。それを承知で、アラン・ドロンは唯一無比でなく、現代風に言えば、超?たくさんいるよ!と思った経験が蘇ってきました。まあお気楽にお読み下さい。

高齢者の部類に入る私は、思春期時代に美男子というより美声の持ち主エルヴィス・プレスリーの声にノックアウトされました。こんな声、こんな歌い方があるのか?といった衝撃でした。日本の歌手や曲にはない世界です。最初はそんなアメリカンポップスの洗礼を受け、好みの男性の顔は和ではなく、洋でした。程なくしてビートルズがデヴューしてリアルタイムで彼らの熱いファンになります。4人の中ではややタレ目のポールが好きでしたが、最高に美男子だから!というのではありませんでした。これまた同時進行で、今では誰も知る人のないと思われる【ウォーカーブラザーズ】というアメリカの3人グループに夢中になりました。リードヴォーカルのスコット・ウォーカーは美声でありハンサムであり、まさにアイドルでした。高校2年生の時、来日コンサートが福岡市の忘れもしない九電体育館であり、実物のスコットに会え、感極まり涙さえ流したことは今でも忘れられない青春の一ページです。


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コンサートでは、多分にファン心理が働いたのかもしれませんが、世の中にこんな美声、かつ美男子がいるのだろうかという衝撃を受けました。いわゆる金髪、色白、碧眼の背の高く、エッと言う程脚が長いモデルのような男性を生まれて初めて肉眼で見つめることができました。漫画チックに言えば、白馬の王子様が目の前にいるという感じですね。スコット・ウォーカーはその後ソロとなり、かなりアルバムを出したので、少なくとも大学時代、そして20代半ばまでずっとずっとレコード(カセットやCDではなく)を聞き続けていました。


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さて、いよいよ本題に入ります。就職をし、25歳の時初めての海外旅行をします。ドルが300円の時代です。当時は郷ひろみ、野口五郎、西条秀樹のご三家が大人気の時代です。同世代の女子はかなり好きな人もいたようです。ブーイングを受けるでしょうが、昔も今も日本人のタレントで心を奪われるほどの美男子は私の中では存在しません。例を挙げると、映画「ジョー・ブラックによろしく」に出た若かりし頃のブラッド・ピットのような美男子を指します。

一ヶ月のヨーロッパ旅行ではいく先々で、と言ったら少々大げさですが、ただ美形、美顔という点から観れば、本当にハッとするような男性、少年をよく見かけました。中でも、イタリアのとある小さな田舎町で出会った少年達、パリの銀行か空港か忘れましたが、両替所のスタッフの男性は出会った時の感情を覚えているほどです。少年達は多分せいぜい高校1、2年生でしたが、薔薇色の頬をして恥じらいもある絵の中に出てくるような美形でした。旅行後に少年達のいたモンターニャとか言う田舎町を探してみましたが、あの頃は今のようなネット検索もなく未だに場所が特定できず残念です。片や両替の成人男性は、当時のアラン・ドロンの年齢より若い人でしたが、両替の途中にその美形に気づき同行のツアー仲間にそのあと「何てハンサムな人」と思わず言った覚えがあります。

ヨーロッパ旅行では色々な思い出や感慨がありますが、日本でのメディア情報では抜け落ちるものが多いのだと思いました。最初に触れた諏訪氏のアラン・ドロン絶賛の記事は、あのたった一ヶ月の旅行で私の中では見事に覆るのです。ドロンの美形は全く否定しませんが、欧州の美形に属する若者の一つのタイプくらいに思えるのです。これは、私だけが言うならおかしなことですが、海外旅行や海外在住の経験のある人からも聞きます。日本人の主婦、芸能業界のひと、女子中学生など様々ですが、北欧より南欧にハンサムなひと(基準、好みはあるにせよ)が多いと思えるのは、北より南の方が混血が多いからではないかと推測します。

タイトルでは、美女も掲げていますが、私が出会った美女は、近所の知人の友人と言っていた医者の奥様、平成7年の福岡ユニバーシアード大会に出場していたハンガリー女子選手、数年前にボン・ジョヴィの東京ドーム・コンサートで見かけた金髪のスラリとした女性でしょうか?美女も外国人が含まれますが、今回は本当に見た目のルックスだけに絞りました。

つい先日4日の「徹子の部屋」にゲストとして出演していた有馬稲子さんが、これまでに出会った中で一番の最高に素晴らしい美女として、昨年亡くなられた【原 節子】さんを挙げておられました。原さんの場合は、立ち居振る舞い、言葉遣い、雰囲気全ても素晴らしい美女と言われ、これこそ美女の名に相応しい女性だなと感じました。

今回は、大好きなボン・ジョヴィには触れませんでしたが、別のブログで書くことにします。ここまで読んでくださった方がいれば嬉しいです。


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