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矢部太郎【カラテカ】作・「 大家さんと僕 」 [本のレヴュー]

一軒家に一人暮らしの大家さんとお笑い芸人の矢部太郎さんとの二人暮らしのエピソード満載です。コミカルに時にはしんみりと漫画で描かれていて、途中で思わず吹き出すような場面もあった。



年代も育ちも違う高齢の大家さんとの距離が次第に近まり、他人でありながらお互いを思いやる家族愛のように深まっていく様子に心が温まる感じがした。人は、最初は全くの他人でもこのように相手に寄り添い心を通わせることができるのだと教えてくれる。時には、大家さんと矢部さんのユーモアがかみ合わず、返ってそれが面白い。大家さん以外では、先輩のお笑い芸人や若手の芸人、のちゃんくん、大家さんの大分に住む友人、えみちゃん(58才)などが時折登場してその個性や人間模様には笑ってしまう。


印象に残ったのが、見かけが冴えない(失礼!)矢部さんとは個性の全く異なる今時の若手芸人が結構大家さんに受けが良い点で、新鮮に感じられた。人の個性はどんなところで他人を喜ばせることができるか決められないなと可笑しくもあり、意外にも思った。



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このマンガ本は、一見噛み合いそうにない共通点もない他人同士でも、心を通わせることができると言うことをしみじみ感じさせる。そう思っていた矢先、7月6日夜、テレビ番組「探偵ナイトスクープ」で過去の作品が放映されていた。タイトルは、「おっさんと少年の友情」といい、さすがに視聴者に人気のあった回だけにこちらもなんだか号泣してしまった。これって、歳のせいだろうか? いやいや、番組の司会者も、探偵役の芸人もうるうるだったので、やはり私みたいな視聴者が大勢いたと思う。


関西、多分大阪の人だと思う。おっさんというくらい中年の男性が会社が倒産し失意の中にある時、家族の勧めで、一人北海道へツーリングの旅に出かける。旅も終え、北海道から青森までのフェリーのデッキでたまたま出会った小学生の男の子(多分5,6年生)に、男性は身の上話や自分の思いを話した。「おっちゃん、倒産したんねん、………」みたいな口調だったらしい。大人の男性の打ち明け話をただそのままに聞き入る男の子。二人の間にその時流れた空間、雰囲気が視聴者に伝わる。男性はその時の男の子が忘れられず、その思いを奥さんが汲み取り、「探偵ナイトスクープ」に男の子探し、正確にいうと、その時の男の子の記憶や近況を探る依頼をしたのだった。番組では、目出度く「おっさん」と「少年」は再会し、視聴者は2人の友情をしっかりと感じ取った。



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番組を見終わってまだまだ涙で眼が赤い中、「ああ、そう言えば、自分にも探して欲しい人がいたなあ」と思い出した。今は高齢なので、万が一仮に探し出せたとしても、これまでに経過した時の長さやお互いの状況に躊躇いが出てくるだろう。あの人に、あの人達にせめて40才までに会いたかったなあというのが正直な感想である。会いたいと思う時に会う、会えるのであれば会う、これは経験から言えることです。


マンガ本「大家さんと僕」、そして偶然観たテレビの「おっちゃんと少年の友情」、共にこの世の中に存在する色んな人と人の温かい触れ合いを感じさせてくれました。


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不登校は何故多くなったのか? [社会]

不登校は何故多くなったのか?



それは端的に言えば、今の学校で行われる戦後教育のシステムや内容が、今ここに生きる生徒たちの存在にそぐわないからだと思う。この状態は平成の時代に始まったことではなく、戦後に始まり半世紀、70数年もの時間をかけて徐々に教育現場に蓄積されて来たと私は思う。



十代未満を含めた学童、学生から見れば、戦後72年経った今も6・3・3制の内容の根本的見直しがないまま、義務教育を終えた後は 【ただ進学をするか否かだけ】 の流れになる教育現場では、どちらの道を選んでも心の奥底では何かしら『空虚感』や『やり切れなさ』を感じずにはいられないだろう。なぜなら自分にとっての本当の必要性や意義が感じられないからだ。自分にとって『学校に行く意味』を学校に見出せない。ここではその人個人の生活習慣や家庭状況による原因は除いて考えてみたい。



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いつの時代も近未来も、形態は変われど学校、学ぶ場所は必要だろう。社会的人間と言われる我々人間が基礎的学習(読み、書き、算盤=算数)を身につけるのは各自の人生にとって必須のものだから。これらは、言葉(言語)を操る人間が生きていく上で必須のものだから。


これらの実用的な学習能力とは異なる、学校現場でよく掲げる『生きる力』とは何だろう?
生徒に『生きる力』を教える、生徒は『生きる力』を身につけていく、という文言は、この国の文科省、教育現場ではカラ回りしているようだ。『生きる力』とは、私が思うに、基礎的で必須の学習能力とは違う、人間として、もっとはっきり言えば、日本人としての精神的支柱を有することだ。



第2次世界大戦(大東亜戦争)後、敗戦国日本は戦勝国アメリカのインスタント憲法をそのままおし戴いてしまった。かつて敗戦を味わったことのない日本は、その受容的謙虚さの国民性が災いしてアメリカすらも想像できぬほど、未だに戦勝国に都合のいい憲法を自前に改正するどころか一部修正することさえ国内外の反対派に遮られる始末である。


この憲法は、天皇国日本という日本の独自性をあやふやにし、戦争の放棄によって国家の存在と国民の生命を他国に丸投げしている。国民は国民で、かなりの人々が無条件の戦争の放棄イコール平和憲法と鵜呑みにして戦後70年以上にわたりたっぷりと洗脳されてきた。


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現憲法は、説明を省き端的に言えば、人間を肉体的側面から捉え(これは戦勝国アメリカのスリーS政策に正に適ったもの)、日本という伝統ある文化的国家の存在意義と本来の日本人の国民性、精神性を抜き去ったものである。



前述の『生きる力』とは、先ず、自前の憲法で日本の国家と日本国民の精神的支柱を明確に誇らしく謳うことで初めて指し示すことができるのではないか。人間は何処の国に生まれ落ちてもその国の成り立ち(歴史)と自分たちの国民性(精神性)を第一に掲げることは自然なことだと思う。国の生命とその国に生まれた人の命がつながりを得た時、政治に、社会に、教育現場に、浸透していき、その目に見えぬ精神レベルの影響は多大なものがあると、私は思う。



現在参議院議員である青山繁晴氏によれば、日本は未だ敗戦の原因の追求、分析にも手をつけていないという。アメリカ様の作った仮の憲法のもと、戦後の日本人は本来の自分たち国民の精神性を見失った
『さまよえる日本人』として生きてきた。戦争直後の日本は、あるところで読んだが、その当時の『世界でも最貧国の一つ』だった。日本は持ち前の勤勉さとたゆまぬ努力で経済一筋で頑張り続け復興を遂げたばかりか、世界第二の経済大国となった。そこまでは、ある意味、貧しい国家、国民にとって共通の大きな目標となり得た幸せだったかもしれないが、精神性を置き去りにしてきた結果の表れが、教育現場における虚無的な空間である。経済第一主義、人間の物質的肉体的欲求の追求には必ず破綻が来る。国家の理念、国民の精神性が語られない教育現場では、進学するか、否かの功利主義となり、その空気に馴染めない、あるいは拒否する感受性の強い生徒が不登校になっていくのはよく理解できる。


長々と述べてきたが、敗戦後、現憲法で精神性を失った『さまよえる日本人』が、経済第一主義を追求した結果の一つが、教育現場での『不登校』 が増加している原因だと思う。


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