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日本語字幕について思う ー その2 映画「トロイ」 [映画]


ブラッド・ピットの主演作の一つ、「トロイ」をテレビで再度観た時のことである。


一度目は映画館で字幕付きを観ていた。制作は2005年であり、ブラピもギリシャ戦士アキレスを演じるほどに若かった頃である。年度を見ると、なんとあれから15年も経ったのかと驚いてしまう。



映画の最後のシーンで、アキレスは味方のギリシャ軍と共にあの有名なトロイの木馬を使って奇襲をかけ、敵地のトロイの本丸の王宮深くに入り込み、愛するブリセイスを助けようと探し求める。


あわや、ブリセイスに手をかけようとしたアガメムノンからようやく彼女を助け出したその時、兄のヘクトルをアキレスに殺され復讐に燃えるパリスに、唯一の弱点である踵を弓で射抜かれてその場に崩れ落ちる。


ブリセイスに肩を抱かれまさに息を引き取ろうとする時、これは大きな終焉の見せ場のはずだが、アキレスのセリフにギャフンとなった。記憶では、ほんの一、二言だったと思う。元々の英語のセリフ自体も「オーケー」かその程度の言葉だったと思う。このことにも驚きつつ、「ええーっ?」 それで、その言葉で締めていいのか??という感じだった。字幕の言葉自体もほぼ其れだけの言葉だったために驚いた。



失望した。あまりにも味気ない一言だった。「トロイ」の映画は、勇士アキレスが主人公の物語であった。繰り返しになるが、英語のセリフそのものも意識が遠のいていく中での呟き程度であったことも、なんだか観客としてフラストレーションを感じてしまったが、素人の私でも、せめて、せめて、「いいんだ、これで、、、、」とでも言わせたかったし、字幕でもそうだして欲しかった。


洋画は常に字幕付きしか観ないのは、主演にしろ、脇役にしろ、一人一人の登場人物(俳優)の声、言葉は映画作品の重要な要素であるからです。絵(各場面)と字幕のセリフを合わせながら、時には原語(英語)と字幕の釣り合いをチェックしながら観続ける作業はなかなかストレスを感じることもあるが、字幕翻訳のはしょりやテクニックに感心したり、時には、「 ウーン、ここはべつの言い方、くくり方があるのでは? 」と思いながら鑑賞していくのは面白いと思う。

俳優によるのか、セリフのスピードか、はたまた声質のせいなのか、こちらの聞き取り能力も左右されてしまうが、スルッと自然にセリフが入ってくるときは豊かな感じに浸れる。



ブラッド・ピットは今年のアカデミー賞で彼の初めての助演男優賞を「ワンス アポン ア タイム イン ハリウッド 」で獲得した。すっかり中年のおじさんになったとは言え、彼独特のキレッキレッの味がよく出ていた。この映画を見て、若さそのもののブラピも思い出され、「ジョー・ブラックによろしく」という昔の映画を観たくなり、ネットでこのDVDを購入して鑑賞しました。


自前のDVDなので、時折字幕セリフで英語の理解度をチェックしてみようと思います。
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日本語字幕について思う ー その1 [映画]

2月13日に産経新聞の『産経抄』を読んだ。



日本で外国映画を字幕で見るようになった最初は「モロッコ」だという。あの脚線美で有名なマレーネ・ディートリヒが主演の映画だ。年間数百本の外国映画はほとんど日本語字幕付きで、戸田奈津子さんはおそらく日本で1番有名な字幕翻訳家だろう。その戸田さんによれば、「正確さ、タイミングなどどれをとっても日本の字幕技術は世界一」だそうだ。面白いことに、それは声優の巧みさでも日本が世界一だと芸能関係の記事で読んだり、聞いたことがある。



歴史、文化、はたまた社会の成り立ちのあい異なる2つの言語の橋渡しと言える字幕には、大きな大きな壁や制約が立ちはだかる。これは確か戸田さんの記述か、テレビで彼女が話したことだが、洋画の画面の下のテロップに数秒出る言葉の数は極々わずかに限定されるという。しかも、その数は昔に比べると字数が減っているという。日本人の日本語を理解する能力が年々、あるいは世代ごとに落ちてきている現れだろう。(正確な秒や字数を忘れてしまったのが残念だが)



私自身の経験で振り返ると、十代、二十代の頃は確かにテロップに次から次に出てくる字数は多かったと思うし、それなりに当然のごとく理解もしていたと思う。その時代人によって、画面と字幕を同時に見るのが面倒で、と話す人もいた記憶がある。単なる自分の感覚では、平成の時代に入った頃から言葉数が少なくなったのではないかと勝手に想像している。



私の個人的な考えでは、日本語は世界で1番語彙が多い言語だと思っている。去年の前半だったか、日本文化チャンネル桜の番組、ジャーナリストの高山氏と歌手のSaya さんの2人の番組で、日本語と英語のことが話題になっていた。そこで1番印象に残った話は、国際通の高山氏が、「日本人が英語を習得するのが苦手と思っていたり、いわれたりするが、そもそも日本語を英語の方に転換、変換しようにもそれに当たる言葉や語彙が少ないからだ。」というような趣旨のことを言われたことだ。日本は長い歴史や文化を持ち、人々がほぼ単一民族で同じ言語を共有し育み、練り上げ、長い時間軸の中で語彙数を膨らましてきた。


そうだ!(笑い) そうなんだ!大方の日本人がこんなに英語下手なのはこれも原因だったんだ!と思えたことは新しく面白い発見だった。



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映画「武蔵」を観て・・・武蔵は小次郎を殺さなかった! [映画]


【日本文化チャンネル桜】の中の番組で、映画評論家の前田さんが紹介した映画が面白そうなので、久しぶりに、多分2ヶ月ぶりでしょうか、映画「武蔵」を観ました。監督は三上康雄氏です。


武蔵といえば、マンガ「バカボン」でも主人公になっている。確か二十歳前後に熊本にある宮本武蔵の墓だといわれのある場所に行ったことがあるが、その事も今こうして書いている最中に思い浮かんで来たくらいで記憶が薄くなり、その場の映像が浮かばないのが残念! 墓そのものは4百年前の時代の武人にふさわしく質素な佇まいだったと思う。自分を召しかかえてくれた恩義のある細川家の殿様が参勤交代で必ず通る場所近くに墓を建て、死後もお側で見守るという道を選んだと伝えられている。死してなお忠義を尽くすという生き方だと思う。



前述の前田さんのお勧めの作品という事もあるが、その直前に荒谷卓氏の剣使いをネット動画で見たことが大きな後押しとなった。この方はつい先月の5月に友人の紹介で知った人物だが、なんと日本での特殊作戦初代群長(自衛隊)であり、その後明治神宮の武道場、「至誠館」館長を務めた方です。兎に角、動画での剣道や恐らくは真剣と思われる剣のさばき、技を見て、魂が浄化されるような気持ちを味わった。女性の私がこれ程剣や、時には銃に惹きつけられるのは、きっと前世でそれらを扱っていたからだと思っている。精神世界に詳しい人はきっと頷いてくれるでしょう。(実を言うと2人の霊能者に前世の一つは武士だったと言われています)



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ともあれ、折も折、剣術家武蔵の映画予告を見た後、放映初日(5月25日)に映画館に出かけた。ネットで予約していたシートに座り、辺りを見回すとかなり高齢の女性、男性が席を占めていた。それに初日なのにか、初日には関係ないのか、観客はまばらな感じである。土曜日というのに若い人はいないのでは?と不思議なくらいである。前田さんの話からもかなりの注目作品だと思っていたから、これには軽い衝撃を受けた。映画を観終えて、個人的には剣術シーンもかなり良くできた見応えのある映画と思ったし、監督の面白い解釈が印象に残った。耳の遠い私など、セリフの一部が上手く聞き取れず、しばらく日を置いてもう一度観てみようと思ったら、上映はすぐに無くなっていてこれは残念だった。チャラい時代劇とは違い、映画はオールロケで取られ、何よりあの有名な「一乗寺下り松の決闘」の1対数十名の斬り合いの連続シーンはこの映画の2つのハイライトの一つです。もう一つは言わずとしれた「巌流島の決闘」です。



さて、主人公の武蔵は幼い頃から父親の無二斎から徹底的にしごかれる。昨今の親の我が子に対するいじめ、虐待事件がすぐに頭によぎるほど無二斎の鍛え方は過酷なもので、「ああ〜! 今の時代であれば、きっとこの子は潰される!!!耐えられる限界をとうに超えている!何というシゴキだ!」と母性本能が働いて武蔵の心情を想像し、グッと肩入れをしてしまった。



剣術家だったと言われる無二斎は子供の武蔵に対して親としての愛情があったのか否か、それは心の奥底に押し込め、この世を生き抜く手段として情を殺し、只ひたすらに子供を鍛え上げよう、ひとかどの者にしようとしごいたのか、観る側の感情移入で如何様にも取れる箇所だ。戦国時代の終末から徳川の時代に大きく動いていくうねりの中で武蔵は煩悶しながらも修行を続けていったのだろう。映画の中の武蔵は特に前半に、「勝ちたい!」「勝負をしたい!」と繰り返し叫んでいた。間違っていようとなかろうと力ありと思えるものに挑んでいく武蔵の姿は、平成や令和の平和ボケの時代感と違いくっきりとぶれない軸を見せてくれる。



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見所の「一乗寺下り松の決闘」場面では、前田氏も賞賛されていたが、非常に見応えがあった。三上監督もあえてスポーツシーンを撮るようにカメラを配置し(確か3台)、カット切りをせず、決闘の最初から最後までを通しで撮っているため、文字通り噓っぽくないし臨場感がある。全部で何分ぐらいの長さだろうか、武蔵役の細田善彦がよく奮闘していた。これは乱闘ではなく真剣勝負なので、例えばサッカーの中村俊輔のフリーキックの名シーンを繰り返し繰り返し観ても飽きないカタルシスが得られる。
史実では、(本当に事実かどうか?)、武蔵は一乗寺下り松の決闘で12才の総大将の吉岡源次郎を先に切り殺している。ところがこの映画では、意図的ではなく、揉み合いの中で事故的に、まだ幼く設定されている源次郎を殺めてしまった。闘いの中で、もう勝負の決着をつけた武蔵が、もうこれで終わりだといくら叫んでも敵側は承知しない。これは悲劇である。


最後の「巌流島の決闘」場面でも、三上監督の演出は史実とは違っていた。

巌流島で武蔵は佐々木小次郎を倒さなかった!

佐々木小次郎は決闘後生きていた!

こう言うと人は信じないだろう!

一乗寺下り松で総大将の吉岡源次郎を意図しては殺さなかった武蔵としたら、むしろこの結末は自然であったと思える。小次郎を殺害したのは、武蔵ではなく、小次郎を召しかかえていた藩の人間だったのである。その事を知るにはこの「武蔵」を観てもらうしかない。


一途に我が道を貫くものは、周りの人をどこかで傷つけるものだが、その生き方に卑しいものがない限り、人はやはりその人の純粋さに自分の魂を揺さぶれるものだと思う。



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映画『 ボヘミアン・ラプソディー 』を観て [映画]


先日、華々しいメディアの宣伝や情報に押され、話題の映画『ボヘミアン・ラプソディー 』を観た。
言わずと知れた英国のロックバンド「クイーン」のlead vocal、フレディ・マーキュリーのグループ結成からAIDSで亡くなるまでの半生を追っている。生涯の女友だちとなったメアリー・オースティンとの出会いの経緯や彼がメンバーにAIDSのことを告白する時期など事実とは異なる場面があったが、フレディが味わったであろう同性愛者(詳しくはバイセクシャル)としての苦悩や葛藤や曲作りのエピソード、彼の歌やパフォーマンスの才能などは忠実に描かれているように感じた。



私にとって「クイーン」の名前を意識したのは、もう40年くらい前になる。その頃家庭教師をしていた15、6歳の女の子がクイーンのファンで、確かロンドンにあるファンクラブに入会したいと、英語で書かれた申し込み用紙を持ってきた。中身の意味や手続きの仕方を説明した記憶がある。その頃のクイーンのレコードアルバムのジャケットやらメンバーの写真を見せてもらった。洋楽ファンとはいえ、リアルタイムでビートルズ、のちにアメリカのロックバンド、シカゴが好きだった私にとって、なんだか濃ゆすぎるバンドに思えた。ただ、当時、地方の内に入る福岡市でも来日公演があったとかあるとか、その女の子のお父さんがなんとドラムを叩いているとか、叩いていたという話にヘェ〜!と驚いたことは覚えている。


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映画を観た後、毎晩クイーンの動画を検索している中で、福岡どころか、山口まで公演していたと視聴者が書いていて、日本の地方にも足を伸ばしたグループなのかと好意的に思った。クイーンは先ず日本で人気に火がついたらしい。そのせいか、最初に自分たちを素直に熱狂的に受け入れてくれた日本や日本のファンが好きになったようだ。特にフレディは自宅に日本庭園を作ったほど気に入ったようで、映画でも着物を素肌に身に纏ったシーンがあった。ネットや週刊誌でも日本の骨董品を買い集めていたと書かれていた。最初に彼の風貌を見たときになんだか濃い感じがしたのは、彼の出自がいわゆるアングロ・サクソン系ではなく「パルシー」と呼ばれるペルシャ系インド人だったことで合点がいく。熱心だったかは知るよしもないが、彼の宗教はゾロアスター教で、遺言通り火葬にされたそうだ。



45才という人生の壮年期で、歌や作曲という才能に溢れながら早くに亡くなったことは、彼自身も無念な思いだっただろう。AIDSはその頃すでに彼を含めた有名人の間でも流行していた致命的な病だった。映画の中で、自分を蝕んでいる病を知ったフレディが、自宅のテレビで、アメリカのハリウッド俳優ロック・ハドソンの死を伝えるニュースを絶望的な表情でじっと見つめる場面があった。あるネット動画では、彼の仕事上の関係者(名前は忘れてしまった)が、フレディがAIDSになったのは、ニューヨークでの放蕩三昧の生活が原因だったとほぼ断言していた。



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私が大学生の頃、もう昔々のことだが、週一回白人系の神父さんが英会話の講師として来ておられた。名前はアントニオ先生とか言われた。彼曰く、「日本はホモセクシャル、ゲイの人には住みやすい、つまり寛容な国だ。」アメリカは、ニューヨークやサンフランシスコは例外として、一般的にゲイには風当たりが強く生き辛いから、自分のアメリカの知り合いでゲイの男性が日本に来ている(来ようとしている)と言っていたのが妙に印象に残っている。先生の言葉にあったように、4,50年前は今とは違い、いわゆるLGBTは表立っては表明、公言できない時代であった。その風潮の中でも、(1970から80年代の)ニューヨークは肩身の狭い思いはしなくてもいい例外的な都市で、フレディは一般人が近寄らない溜まり場や裏世界で羽目を外したのだろうから、なるべくしてなった病なのだと思う。




この映画のタイトルになっている「 ボヘミアン・ラプソディー 」の歌詞は、正にフレディーの人生と心情だと受け取ると彼のことがよく理解できると感じた。 一つ一つの言葉が腑に落ちる。意外なことに、メンバーのブライアン・メイやロジャー・テイラーはこの曲、歌詞が何を意味するのか、彼との関係など全く分からないと言っている。曲作りや普段の付き合いの中で、何か話題になったり、自ずと知れることがあったに違いないと思うのだが、彼らは自分たちには分からないと繰り返す。このことから、フレディの私生活やプライベートなことには普段から意識的に関知しなかったのか、彼との友情がそうさせているのか、今一つ私には理解できないところである。ブライアンやロジャー、それにジョン・ディーコンも個性や才能に満ちているが、ロックミュージシャンの派手さ、荒々しさは感じられない。一時はグループ内に険悪な時期があったと言われるが、強烈なキャラクターのフレディ(私生活では内気で大人しい)とどこかでバランスが取れていたのだろう。



最後に、ずいぶん前の産経新聞紙上で、ある学者が、動物の例を挙げ(ある動物を観察したのか実験したのか忘れてしまったが)、人間も乱交を繰り返すと免疫能力が落ちると言っていたことが思い出された。
AIDSは免疫不全症候群という病の略語である。ネット動画の中で、晩年のフレディの言葉が流れていた。


『 自分の犯した罪は、自分で償うしかないんだ。 』

この言葉はなんと重い言葉であろうか!

このことばを読んだ時、同時にある意味、彼の自分の人生を受け取る覚悟、強さも感じた。

同性愛の趣向は彼の生まれながらのものだから責めを負わせるのは過酷だが、乱れた生活と引き換えに命を落とすことになった。


人々をその歌と才能で熱狂させたり、鼓舞したフレディ・マーキュリーの存在は、クイーンの数々の名曲が歌われ続ける限り、生き続けるだろう。


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サイキック能力者、エドガー・ケイシーの業績ー映画「リーディング」 [映画]

3月10日(土)18:05から、大阪で久し振りに観た映画は、「リーディング」(The Readings)です。


エドガー・ケイシーは、スピリチュアル世界に詳しい人なら知っている「眠れる預言者」と語られるサイキック能力者で、残念ながら70年ほど前になくなっています。その彼の遺した業績や人類への道筋を世界で初めてまとめた映画が、この白鳥哲監督の「リーディング」です。


リーディングとは、眠っている(催眠)状態のケイシーが述べる相談者への霊的指摘、療法とでもいったら良いでしょうか。彼の〝 リーディング〟の凄さは、死後70年経た今も、リーディングの中で与えた療法によって日本人の癌や難病の病気が完治した事実からもはっきりと確かめることができます。さして高等教育も受けたことのない医学には全くの素人であるケイシーが睡眠状態で医学用語を正確に語っている事実(記録)には驚くばかりです。



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彼の遺した業績は、医学療法の他に、有名な前世療法、精神的魂的なアドバイス、夢解釈、ちょっと意外なものとしてはビジネスへの指南もある。映画の中でも紹介されていて、その正確な数字は忘れたが、一万件はゆうに超えていた。


映画の中で、日米両国の研究者がエドガー・ケイシーの生涯を追いながらその業績を解説している。日本からは【日本エドガー・ケイシーセンター】会長の光田秀氏が的確にケイシーの解説をしている。その中でも注目すべきは、癌の原因を血液の劣化と断定している点であり、そのことを踏まえた上で、ケイシーの勧める効果的な治療を4つあげているところである。映画の途中では理解して覚えたつもりだったが、映画を観終わった後記憶が曖昧になり、この映画がDVD化されることを願う次第である。40代くらいの私なら、バッチリ覚えていただろうに! ケイシー療法によって癌から生還を果たした患者さん(複数)の証言あり、ケイシー療法の効果を認め支持する現役の医師たちの話ありで、癌のみならず、また色々な病気を持った人だけでなく、私たち一般人が健康を保持する食事療法など有益な情報がたくさん得られた。



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前述の光田先生によれば、これは2011年以降の大阪での講演会で直接伺った話だが、日本で初めてエドガー・ケイシーの存在を紹介したのは、生長の家の創始者谷口雅春先生だという事です。実は私も、谷口先生がエドガー・ケイシーの名前を挙げて紹介された本を読んだ記憶が今も残っている。その時は、なんと不思議な能力を持った人物だろう、と深く印象づけられた。そのせいか、それから随分経って、公立図書館で偶然【転生の秘密】という本を見つけ、その内容にすっかり魅了された。これは、イタリア系アメリカ人、心理学者のジナ・サーミナラ女史がケイシーの、主に前世療法について解説した本である。当時の私にとっては、ケイシーの語るカルマ(業)の中でも、ブーメラン的カルマが特に心に焼きついた。過去生で自分がした行為(悪業)を、現生では自分が反対に受ける側になる、というのである。極端な例をあげれば、人を殺すと、次の生とは限らないが、後の生を受けた時に、殺される側になる、つまりは殺される側の苦しみを味わうことで自分の犯したカルマの解消を果たす、ということである。


この【転生の秘密】という本は、自分や周囲の人々、この人間社会の仕組みを知る上でも、一度は読んでおいた方が良いと思います。勿論、カルマ、カルマ、と固執すると偏った人間になり、人にも嫌われたりかえって益にはならないでしょう。でも、個人的な見解としては、学校教育の中でも、特に小、中学校などで語られる機会があった方が良いと思います。話は飛びますが、トルコでは、宗教の時間、授業があり、イスラム教だけでなく、世界の宗教の解説があると聞いたことがあります。どの程度のものか、本当にあるのか確認したことはありませんが、日本では道徳の時間の扱いで四苦八苦している状況ですから、世界の宗教について解説する授業は文部省も考え付かないでしょうかね。一方で、解説できるレベルの教師が揃うかが問題でしょうが。


今回、日本でも、世界でも初めてエドガー・ケイシーを紹介する映画「リーディング」が上映された意義は深いと思う。映画の構成、内容、多数の証言者、識者の登場も理解や共感をもたらしてくれた。予想外では、エドガー・ケイシー役を何とあのセイン・カミュが演じていたとは!観終わって、紹介のパンフレットで知りビックリでした。セインさんは確か40代後半の年齢になっておられ、そのこともあって気づかなかったのです。私の知っているセインさんは2、30代の頃です。しかも、彼の大叔父はノーベル文学賞受賞者のフランス人、アルベール・カミュだったとは!カミュの血を引く人が日本人と結婚していたとは!世の中の不思議な巡り合わせをここでも感じました。



最後に、
日本エドガー・ケイシーセンター会長の光田先生の長年にわたる研究、啓蒙活動や、白鳥監督の才能に深く敬意を抱いたことをここに記します。


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映画『ハクソー・リッジ』••••• メル・ギブソン監督による沖縄戦(前田高地)の実話 [映画]

【 戦後72年目を迎える沖縄戦の映画 】

日本が、来月8月15日で72回目の終戦記念日を迎えようとしている時、日本軍と米軍が死闘を繰り広げた沖縄戦での実話を描いた映画が、あのハリウッド俳優メル・ギブソン監督(映画「ブレイブハート」主演)によって製作されていると知り、映画館に出かけた。


【 主人公エドモンドの真の勇気 】

主人公エドモンド・ドスは、第二次大戦後(1945年)に良心的兵役拒否者としては初めて、軍人として最高の栄誉勲章をトルーマン大統領から授与されます。正確にいうと、兵役を拒否したのではなく銃を触ることさえ拒否した衛生兵として従軍したのです。。映画では、エドモンドが聖書の中の「汝、殺すことなかれ」の戒めを少年時代からいかに信仰、信念として持ち続けたかを描いていて、自然と理解や共感はするのですが、入隊後猛烈な暴力的いじめにあったり、上官から強く除隊を迫られたり、軍法会議では危うく刑務所行きになりかける事態の中でも、決してその信仰、信念を曲げなかった勇気には驚きました。後になって上官のグローヴァー大尉は、「痩せた臆病者」と思っていたが彼こそ真に勇気のある人間だと認め、深く謝ったのです。


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【 そもそも「ハクソー・リッジ」とは? 】

「ハクソー・リッジ(Hacksaw ridge)」とは、直訳すると「のこぎりのような尾根」の意味で、沖縄の浦添市にある「前田高地」を指しているとわかったのはネットのお陰でした。米軍の師団が高地に立て籠もる日本軍と戦う中で、150メートルほどの崖を6回登って6回撃退されていた最中に、エドモンド・ドスが属する部隊は初めてこの崖を目にします。第77師団の衛生兵エドモンドは、高地の上で軍艦からの砲弾(艦砲)や雨のように降り注ぐ銃弾、火炎放射、手榴弾の中を本当に丸腰で動き回ります。あゝ、なんという恐怖! 命からがらとはこのことです。こんな体力、気力は持ち得ません。戦争映画を見るたびに、「あゝ、矢張り女に生まれたほうがいい!」とつくづく思ってしまうほど自分に度胸や自信がないことを思い知らされますね。


【「人は殺さない」信仰と戦争への参戦】

彼のセリフの中に「真珠湾攻撃を聞いて、自分も入隊したいと思った」とありますが、これには日本人の私としては微妙な感情が生じますが、太平洋戦争の真の経緯は当時のヴァージニア州の田舎に住む一庶民の若者には知る由もないでしょう。彼は「汝、殺すなかれ」を説く聖書の教えに立って、「人を殺す」ためでなく、「人を救う」ために従軍に自ら志願するのです。ここで注目すべきことは、彼自身もかれの信仰するセブンスデー・アドベンチスト教会(Seventh-day Adventist Church)も、戦争そのものには反対の立場ではないということです。
映画では、「みんなが次々と入隊していく中で、自分だけが家にいるなんてできない」という言葉を言っていました。信仰として「人は殺さない」、だから「銃には触れない」。戦争には「人を殺す」為でなく、「人を救う」為に行くのだ、という考えです。一方で、国家が戦争状態になったら、自分は当然参戦する、というのです。これは、国家として自立できていない今のお仕着せ憲法を遵守だの、戦争よりも常に対話を!協調を!と空論を声高にいう腰砕けの連中に聞かせてやりたい言動です。


いつ殺されるかわからない修羅場の戦場で、本当に丸腰状態で仲間の負傷した米兵を探し回り、励まし、一人ずつ高台から崖の下まで「もやい縄」で降ろしていくエドモンドの行動には圧倒されます。強い信仰を持ち、「神様、もう一人、あともう一人だけでも救わせてください」と、疲労と恐怖の放心状態になりながらもつぶやく姿は崇高な感じがしました。エドモンドを演じたのは、最近日本でも注目された映画「沈黙」で主演の若手俳優アンドリュー・ガーフィールドですが、今回も信仰に生きる若者を違和感なく演じています。「ハクソー・リッジ」の方が、時代も現代に近いアメリカ青年役なので適役だったと思います。


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【 映画全体と監督のメル・ギブソンについて】

今回ネットで調べて見ると、監督をしている有名俳優メル・ギブソンはカトリック教徒だと分かり、随分前にアカデミー賞を幾つも獲得した「ブレイブハート」を思い返して見ると、今回の作品とも共通して成る程こういう心情を持った人なのかと思える作り方やシーンが蘇りました。「ハクソー・リッジ」では先ず、エドモンドの故郷ヴァージニア州の自然風景がまず出てきます。岩山は少年時代から楽しく遊びまわった所でしたが、青年になって戦場に赴いた時は、険しい前田高地の断崖となって生死を分ける地獄の場所となって出現する巡り合わせ。エドモンドが命懸けで神に祈りつつ75人の兵士を救い出した後、自分も負傷して担架に担ぎ込まれ、崖から空中に吊るされて降りていく場面は、空中に浮かんだ担架のエドモンドだけがアップになり、まるでエドモンドの行為が天上の神に祝福を受けているかのようなカメラワークであった。これは、「ブレイブハート」の最後に、主人公ウォレスが服毒死を拒み、壮絶な拷問死で息絶えていく途中の幻想的シーンと被さりました。ウォレスははっきりとしたキリスト教徒者ではなかったにしろ、ウォレスやエドモンドに共通して言えるのは、信念、あるいは信仰の強さであり、メル・ギブソンは監督として真の勇気を観客に問いかけたかったのではないかと思います。確か2004年に制作され、上映前からも物議を醸したど同監督の映画「パッション」は、ズバリ、キリストの処刑をテーマにしたものです。今回の映画から昔見た「ブレイブハート」のいくつかのシーンを改めて思い出し、まだ見ていない「パッション」を見てみようと思いました。(この「ハクソー・リッジ」は監督としては確か5作目です。) なんとまあ、ネットで見ると、「パッション」の2作目も制作予定だとか、「ハクソー リッジ」に関するインタヴュー動画を何本か見ましたが、往年のあの若々しいハンサムな顔立ちは、どこに行ったの?と思いますが、エネルギッシュな話ぶりや オーラは健在で、さすがこれまで3人の女性に9人の子供を産ませただけのパワーがある人物だなと感心しました。

今回、戦争映画だけに見る前からその残酷なシーンや描写に覚悟をして臨みましたが、そのせいか割と冷静に見れました。やはり日本人なので、米兵が火炎放射器で日本兵を焼き殺す場面はとても悲しかったです。アメリカ軍の圧倒的な物量を見せられ、日本軍がもし同じだけの物量を持ち得ていたら、恐らくは勝っていただろうにと思いました。この映画では日本や日本兵そのものへの非難や蔑視などはなく、彼らの描き方もほとんどまともで反発や違和感はありません。1つ言わせて貰えば、日本軍の敗戦が決まった頃、沖縄戦の敗将、牛島中将を連想させる人物の切腹の仕方が簡単に描かれていたことです。これまで読んだ本での刀の差し方と切り方(作法)と比べると正確ではありません。日本人付きのスタッフがいたのは知っていますが、そこまで知識がある人ではなかったのか、簡略化したのかはわかりません。

「ハクソーリッジ」はアカデミー賞の2部門で入賞していて、それだからいうのではなく、キャスティングも上手く配され、脚本もよく、あれだけ爆発シーンや激しいアクションの中で一人も負傷者が出なかったのは驚きです。一番最後に、晩年のエドモンド・ドス本人や当時の上官などのインタヴュー動画も短く添えられ、エドモンド・ドスという比類なき勇者があれほどの惨たらしい戦火の中で実在したという感慨を深く味わい感動を覚えました。


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1984年製作・映画【空海】(弘法大師・御入定1150年記念)ー早坂暁作のコミック本と合わせた感想 [映画]

ある日、新聞紙上で36年前の古い映画「空海」の広告を目にして初めてその存在を知り、早速レンタルビデオで観ました。そもそもこの映画は、弘法大師・空海「御入定」1150年を記念して企画、製作されたものでした。ということは、弘法大師空海が旅立たれて、平成29年現在、1186年もの時が経過しているということです。


今回、ネットで検索しているとなんと、主演俳優染谷将太で「空海 KU-KAI」の映画が今中国で製作中で、今年度完成し、2018年公開されるとのこと、映画の一部の情報を読んでみると、オーソドックスな撮り方ではなく、中国での若き空海の冒険談になっているような印象を受けました。どんな出来上がりか楽しみです。原作は作家夢枕獏が17年かけて書いた本、「沙門空海 唐の国にて鬼と宴す」(全4巻)ということです


さて、映画は3時間ほどの長丁場なのに途中で退屈さを感じなかったのは、脚本家早坂暁氏の力量によるのでしょう。早坂氏と言えば、かなりの昔、NHK放映の吉永小百合主演、「夢千代日記」の脚本家としても有名です。空海を演じる俳優北大路欣也は当時41歳で、青壮年期を演じるにはぎりぎりのところだったと思います。あくまで個人の意見ですが、後半になるにつれていい雰囲気が出ていました。最後の最後、私に会いたくば、【遍照金剛】と唱えなさいと弟子たちに伝えるところでは、自然と涙が出て来ました。


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幼少年時代の空海の名は、真魚(まお)という、現代からすれば変わった名前ですが、そこではたと思ったことは、若い頃九州の天草に居た頃見聞きしたことでした。海に囲まれ殆どが漁業に従事するか半農半漁の地元では、その人たちの名前に魚そのものや動物、漁業に関するものがなんのてらいももなくつけられていた事実です。さらに言うと、日本ではそう大昔に遡らなくとも少なくとも戦前までは古風な、実際に人の生活、職に関わる名前が確かに使われていたのを思い出しました。空海は、いや真魚は、天草の島々と同様、海に面した四国の讃岐生まれの人です。その名前になんの不思議もないわけです。


空海という名前を何時頃から名乗るようになったのか、歴史に登場する日本人にはよくあるように、空海という名に落ち着くまでにいくつか名前があるようですが、名は人を表すというだけに、よくこの名前を付けたものだと思います。歴史上の他の名僧とは別格のスケール、人格の大きさ、密教の不可思議な雰囲気、日本各地に広範囲に残る足跡、逸話は、平成の現代もこれからも人を惹きつける不思議な魅力に満ちています。


映画の中で、これまで知っていた、或いは、知らなかった逸話、彼の発した言葉(台詞)を確認したくて、同じ早坂氏作による、【空海】(集英社・ジャンプ コミック デラックス)というコミック本を選びました。


空海の修め究めた密教の内容や奥義は、私にとって未だ手掛かりがあるような無いような想像を超えたものですが、映画とこの漫画本を合わせると、空海の生きた時代は、奈良から遷都したばかりの平安京初期の頃を含み、天皇も次々と代が変わる生臭い政争を孕んだ時代だったと分かります。これは発見でした。また、共に遣唐使として中国(唐)に渡って無事に帰国できた後天台宗を開いた年長の最澄が一時空海の弟子となり、結局、お互いの立ち位置の違いが深まり袂を別つ過程が漫画の中の問答でも描かれ、よく理解できた。


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細かいところでは、映画でもコミックでもサラリと触れられていたが、空海の修行時代、富士山噴火に遭遇した際、相手の命を生かそうとして抱いた女が、10年後にその時身ごもった子供を連れて空海を訪ねて来て、彼が自分の弟子にする場面が印象的でした。これは、100パーセント早坂氏の作り上げたフィクションでしょうか?或いは、元になるような話、伝承があったのでしょうか?興味のあるところです。


以下の事柄も強く興味を持ち、自分なりに思いを巡らした点ですが、また別の機会に触れたいと思います。

① 空海の生きた時代、当時の朝廷との関わり

② 室戸岬にある海に面した洞窟で修行中体験したこと:明星が空海の口に飛び込んで来た事

③ 滞在期限20年という掟を破ってまで2年で帰国した理由

④ (漫画本の最後にある)最晩年の空海の【秘密曼荼羅 十住心論】を説く言葉
の意味


ちょっと残念なことは、中島徳博氏の漫画(絵)のタッチが荒削りな感じがして私の好みではなかったことですが、映画「空海」の思い起こしにはとても役立ちました。



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映画「沈黙」を観て•••••日本は宣教師の墓場? [映画]

もうかなり前に、バプティスト派の牧師さん(この方は滞在歴も長く日本語も堪能な方)から、「日本は宣教師の墓場だ」と話されるのを聞いて、強く印象に残っていた。この映画の原作は遠藤周作の「沈黙」である。残念なことに原作はまだ読んでいなく、映画の方が先になってしまったが、1つの作品としてどう感じたかを書いてみた。


映画全体を観終えて、内容や展開を予想していた前半よりも後半の方が興味深かった。主人公ロドリゲス神父が、彼を信仰に導いたと言える恩師フェレイラ神父が遠い日本で棄教したという知らせをマカオで聞くところから映画は始まる。主役はアンドリュー・ガーフィールドが演じているが、ついあのスパイダーマンかと思ってしまったり、4百年前の話なのに現代の青年の匂いがしてしまうのは私だけだろうか?彼なりに演技にははまっていたと思うのだが。スコセッシ監督が最初に考えていた、あのカメレオン俳優と異名を持つダニエル・デイ・ルイスの方があの時代の雰囲気にマッチしていると個人的には思います。彼ならば、生命の果てるギリギリのところまで神と対峙する悩める人間をもっと深く演じられたのではと想像します。


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実はこの「沈黙」の映画化の話を私がネット上で最初に見たのは10年ほど前だったように覚えている。当時長崎に居たこともあり、時の流行作家、遠藤周作氏の講演もそれよりずっと昔に一度聞いたこともあって映画化を期待する気持ちが高まりました。しかし、どういう経緯かその話がたち消えてしまい、再び、今度は映画の完成のニュースを昨年9月か10月ごろに知った次第です。


だいぶ話がそれましたが、キリシタンではありながら何度も踏み絵を踏む「転ぶ」行為を選ぶキチジロー役は、日本人の(勿論でしょうが)窪塚洋介が演じています。このキチジローはその度にロドリゴ神父に告悔(こっかい、英語ではconfession)を請います。こうした人間の弱さ、愚かさ、哀れさを彼はよく滲ませていましたが、懺悔を神父に何度も請い願う場面を見るうちに、これほど繰り返していくうちには、もっと彼の中で苦悩が深まっていくのでは、何かしらもっと変化が生じていくのではという疑問が湧いてきました。そこに映画の演出の物足りなさを感じます。キチジローがいかに厳しい環境に置かれ、教養もなく、人間の弱さを持った性格だろうとも、そもそも神という存在を自分の中に自分なりに認識したのなら、神に背く、つまり、信仰を否定したり自分の大切なものを何度か否定する行為は、その後の彼を変えていくでしょう。


演技力においては、井上筑後守を演じたイッセイ尾形がもっと巧みであったと思う。ロドリゴ神父に向かって放つ言葉、「お前はわしに負けたのではない、日本という沼地に負けたのだ」というセリフが印象的です。また「 村人たちはお前のいう神を信じているのではない、お前たちパードレを崇めているのだ」という内容の言葉は非常に示唆に富んでいる。中東で生まれ、西洋で広まったキリスト教は本当に日本という異なる文化、風土にある民に理解されうるのか? 最初に述べた「日本は宣教師の墓場だ」というある牧師さんの言葉が蘇ってくる。


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目の前で迫害を受ける隠れキリシタンたちの苦悩、非業の死をまざまざと見せつけられ、神はいるのか?何故、神は沈黙し答えてくれないのか?とロドリゴ神父は苦悶する。生きているロドリゴ、殺されていく信者達に為すすべも与えない神の全き「沈黙」と、信者達の命と引き換えには棄教せざるを得なかったロドリゴのその後の「沈黙」の生き様は彼の心の中でどう捉えられ解釈が成されたのだろうか?
最後のシーンはここでは言えないが、観る人に1つのヒントを与えていると言える。


棄教後の彼を語るナレーションの声が誰が語っているのかはっきりと分からないまま、最後のシーンまで釘付けになった。3時間ほどの長い映画であったが、途中で飽きがくることも無く、寧ろ時間の経過が早く感じられたのは、物語の引き回しが成功しているのだろう。見終わって、色々と補足説明が欲しいような気がしたので、やはり原作を読むしかないだろう。


最後に、映画のロケーションは、なんと台湾で行われたと分かった。日本ではコストがかかりすぎるのが大きな原因とネットに書かれていた。日本の海岸の景色かなと思えたが、アジアで日本にも極めて近い台湾の海や山が使われていた。

28年前に「沈黙」の翻訳本を読んだ時からこの映画化を望んでそれをついに叶えたスコセッシ監督の大いなる意志に大きな拍手と賛辞を捧げます。


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舛添都知事に見て欲しい映画『殿、利息でござる』•••••実在の無私無欲の日本人 [映画]

5月14日公開の映画『殿、利息でござる』を早速見て来ました。

予告編を見て単純に面白そうだなと思ったのと、先週末に【徹子の部屋】に主演の阿部サダヲさんが出ていて、その軽妙なトークの中で彼の初の時代劇主演と知り、益々期待が増しました。

この映画は、笑いあり、涙ありのコメディータッチの映画の相を呈していますが、「これは実話です」というフレーズが添えられています。ネットで見ると、江戸中後半期の仙台藩内・吉岡宿の穀田屋十三郎達が成した行動を描いたとあります。磯田道史の原作「 無私の日本人 」の一編【 穀田屋十三郎】が元になっているそうです。


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****舛添都知事に観てもらい、感想を求めたい映画***

映画を見ていくうちに、そして見終わったあとに、なんという無私無欲の日本人がいたのか!という感慨と驚きがありました。それと同時に、折しも13日の金曜日に政治資金流用の釈明記者会見をした舛添都知事が対照的な真反対の人物として頭に浮かび上がりました。舛添都知事には日本人の「恥」という観念がないのか、と思いました。丁度、17日火曜日の「虎ノ門ニュース 」出演の百田尚樹氏が、この人には「恥」という概念がない!と、全く同じ意見を述べられたので我が意を得たりという思いです。主人公穀田屋十三郎とその志を同じくする仲間達の生き方を見て、私には「滅私奉公」、「無私無欲」という四文字が浮かびました。前者の「滅私奉公」は本来奉公人の姿勢や生き方を示す言葉と思いますが、穀田屋十三郎は正に私(わたくし)を無にし、公(自分の村や住民)のために持てるものを進んで投げ出すという徹底した公人の生き方そのものです。権力に溺れ、公金を欲望に任せて費う舛添氏は「厚顔無恥」という四文字がはまりました。先週の記者会見以降も、元妻の片山さつき氏や元愛人の母親、元新党の関係者から次から次に暴かれる実態をネット上で読むと、その私的公的モラルの低さは明白です。この映画にある実在の人たちからすれば想像もできない品性、人間性でしょう。舛添氏にはこの映画を観てもらい、感想を求めたい。たとえ、この人が記者会見の時のように言葉を繕ったとしても、そこに見える人間性を確認したい。


***ストーリーの一部***

江戸中期明和の時代(240年前)、仙台藩にある吉岡宿(村か町くらいの規模)は、飢饉もある中、藩への年貢、さらには無償で提供する伝馬役という課役もあり疲弊していた。かねてから自分の住む吉岡宿の現状を深く案じていた穀田屋十三郎(阿部サダヲ)は、知恵者の菅原屋篤平治(瑛太)から、当時としても奇策と言える「取られる側から取る側」に換わる【お上への金貸し】という逆転の発想を聞きつけ、思わず唸ってしまうがその場で決断する。先ず自分から私財を投げ出し、仲間集めに奔走する。普通ならば、自分や家が儲かる話につながっていくと思うが、元より私利私慾はなく、藩への貸付金から得られる利子を一銭残らず伝馬役や住民への資金に当てるのが目的であった。何とただただ差し出すだけの行為である。協力者を一人づつ当たっていく中、当然ながら金銭欲や名誉欲にかられ仲間に入ってくるものもいたが、十三郎は無論、ほとんどが無私無欲の志で全ては吉岡宿全体のために私財をギリギリまで投げ出した。藩に嘆願書を出し、上納という貸付が認められるまでに紆余曲折があるが、そこは映画を観る面白さとなっている。話はここで止まらず、何がしかの見返りや報酬は一切求めず、自分たちの救済の事実すら子孫代々口外せぬ、集会などの公的な場所では末席に座る、通りでは目立たぬように端を歩くなどと、徹底した滅私の戒めを自分たちに課した。戦後生まれの私としてはここまで謙(へりくだ)らないといけないのかと思ってしまう。しかし、これが古文書に記録されていることだから、私たち日本人の祖先は実際にこういう生き方を良しとしたのでしょう。

穀田屋十三郎を含めて庶民の9人が足掛け6年かけて、今のお金で三億円もの大金をかき集め、とうとう藩への交渉が始まるわけですが、江戸時代の身分階級社会でなかなかスムーズにはいきません。最終的には穀田屋達の一念を貫き通す思いが叶います。映画の最後のナレーションで、吉岡宿はそれ以後何十年にも渡り(一時期、藩からいきなり打ち切りがあった)江戸時代末まで、藩からもらう利子のお陰で以前のように疲弊することはなかったと知らされた。借金を反故にせず、利子を払い続けた藩にも感心しました。


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***見所***

主人公穀田屋十三郎には長年の疑念というか、トラウマがありました。長男の自分がなぜ養子に出され、弟が家を継いだのか?ということです。十三郎の父親である浅野屋甚内、そして吉岡宿で一番しみったれのケチと言われている弟の本当の姿と秘密は映画を観る人のためにあります。

この映画のキャストもよく考えられていました。男性ばかりの登場人物の中に、史実にはない飯屋の女将として【竹内結子】を入れたところは、華のあるアクセントになり成功していると思います。

冷酷で計算高い役人を演じる松田龍平もなかなか味が出て適役でした。一番意外な配役ながらとても好感が持てたのは、伊達藩主重村を演じたあのスケーター羽生弦詰でした。若い殿様役ですが、凛々しくて新鮮でそつなく演じていてびっくりです。


***再び、舛添都知事について***

記者会見での舛添都知事の回答を聞くと、権勢を振るう立場に乗っかり余りの公私の区別もなさ、権威主義、筋の通らぬ言い訳に終始していて幻滅しました。私的流用の疑いをかけられた公金は全額返金、と同時に、今回の指摘が陰謀や単なる中傷でないなら、疑いを持たれたこと自体を恥じて辞任すべきだというのは厳しいでしょうか?これが穀田屋十三郎の生きた江戸時代ならば、公金横領で切腹ものでしょう。前述の百田尚樹氏も「虎ノ門ニュース」で同じことを言っておられました。

舛添氏は東大卒の頭脳も冴えて、能力やキャリアも高いということから都民も選挙で選んだと思いますが、今回ネットで調べると、普通一般の人間から見ても私人、公人としても問題ありです。こういう人物を再び都知事に選ぶことがないよう、都民も日本人全体も選挙民として猛省しないといけないです。


***最後に***

穀田屋十三郎とその仲間達の驚くべき善行はこうして後の世の日本の社会や日本人のあり方を問いかける鏡となる事に感動しました。この映画の意味はここにあります。しかし、映画でも触れられていたのですが、彼らの行動や生き方の源は、浅野屋甚内が日常に繰り返し説いていた陽明学の教えにあるとわかりました。(陽明学に興味が湧きました) 人はかくあるべき、という先代の父親が説いていた教えが、いつの間にか皮膚感覚で息子に伝わっていた教育の偉大な効果を感じました。まさに、人は家庭を含めた教え、教育によって形成されるのです。


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映画「 追憶の森」 富士の樹海は理想の死に場所? [映画]

大型連休は無いものの、ミニ連休の初日の3日に、ごく最近まで予定はなかったのですが、映画「追憶の森」を観ました。次のことに促されたからです。

① テレビか予告動画でほんの一、二回、渡辺謙さんがこの映画について語るシーンを見たからです。
( やはり、自分というか、人間というのは視覚に訴えられるとその感覚が強烈で動かされやすいのだと思いますね。)

② 謙さんとあのマシュー・マコノヒーの2人の絡み合いのシーンがほとんどを占める

③ 場所は、日本のあの自殺の名所、富士山の麓の【樹海の森】らしい


ここまで揃えば、多少ネットでの映画の評価が低くてもどれどれ見てみようという気になるものです。

見終わっていつものごとくネットで検索すると、監督はあの「グッドウィルハンティング」を撮ったガス・ヴァン・サントだと知り、ちょっと驚きでした。「グッドウィルハンティング」は、トラウマや挫折を抱えた若者の再出発を描いていたが、その視点から今回の映画を振り返ると共通するものが感じられる。また、わたくし的には主演のマシュー・マコノヒーは気に入りの俳優でもないのだが、何故この映画のオファーを受けて出演したのか、という理由は5月4日付の【リアルサウンド】(牛津厚信氏)を読んでみるとその辺りの経緯や推察がよく出されていて面白い。

【リアルサウンド】によると、
マシュー・マコノヒーは90年代後半にデヴューし(1961年生)、一時かなりのブランクを経て「リンカーン弁護士」(2011年)を始め2、3の作品で勢いを盛り返し、「ダラス・バイヤーズクラブ」(2013年)でアカデミー賞主演男優賞を獲得した。私は残念ながら若い頃の彼しか見ておらず、今回の眼鏡をかけうすら髭の生えた中年男性の顔に面影をなんとか合わせようと画面を追っていたが、記憶の中の彼の顔立ちではなかった。2、30年も経つのだからそれはちょっと酷だったかもしれないが、役どころなのか年齢を経た男性として別の人の風貌に変わっていた。撮影当時の年齢53才にしては若さを保っている姿で決して悪い意味ではない。


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この作品は、アカデミー賞を受賞した「ダラス・バイヤーズクラブ」の公開前に演じた映画ということです。共演の渡辺謙はマシュー主演「インターステラー」の監督の常連で、「インターステラー」出演者のマット・デイモンは、「追憶の森」のメガホンを取ったガス監督が「グッドウィルハンティング旅立ち」で一躍有名になった俳優です。映画業界は、このように何処かで誰かと繋がっている集合体だとよくわかる。何だか俗っぽい表現かもしれないが、営業マンが取引先の社長から別ルートを紹介されて自分の販路を広げようとした、という感じがふと湧いた。(これって小市民の発想?)

映画の原題は、【 The Sea of Trees 】で、文字通り邦題を【樹海】とすると、日本の観客にとってみれば、はなからおどろおどろしさを感じ、内容からしてやはり【 追憶の森 】がふさわしいかもしれない。一方、海外の観客からすれば、【 The See of Trees 】(樹海)の原題の方がかえってストレートで効果的である。言葉の持つ意味は、このように国や社会文化で変容するという実例でしょう。


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配役に対しての違和感は覚えなかったが、ストーリーの流れ、描き方に無理を感じた。 111分という割と短めの時間のせいもあると思うが、主人公のアーサーが、妻との不協和音に始まる一連の不幸の中で、ついに自殺をしようと思い至るまでの精神的葛藤や内面の動きが深く丁寧に描かれていないため、観客は彼の選択にあまり共鳴できない点である。彼の行為に説得力があまり無い。そもそも、病を患った妻ジョーンが夫のアーサーに、病院のベッドではなく「理想的な死に場所」(字幕スーパーのまま)で死んで欲しいと願い、アーサーもそれに約束をする場面がしっくりこなかった。我々日本人の場合、人はよく畳の上で死にたいと言いますが、字幕の「理想的な死に場所」という和訳はむしろ「一番ふさわしい死に場所」としたほうがいいのでは?と見ている時に気になりました。ジョーンの言葉が唐突にしかもあまり脈絡もなく出てきた感じで、私にはしっくりとこなかった。この言葉が出て来る心情や必然性がいまひとつ掴めなかったのです。合わせて、アーサーが彼女のいう「理想的な死に場所」、つまり"the perfect place to die" をネットで検索しヒットした青木ヶ原の樹海のサイトに見入るところは分かりますが、いかにグローバル化した時代とはいえ、アメリカのとある空港からはるばる日本にまで所持品もほとんど持たずやってくるところなど、現実的で無いと思われました。そのリアリティーの無さを他に感じたのは、ネタバレになるのであえていいませんが、自殺の影から逃れ生を取り戻したアーサーが再びアメリカに戻り、多分長期の不在となった期間をどうクリアしたのか以前の講師の仕事にすんなり復職していたところです。

『結論』
登場人物の行動や心情にリアリティーや説得力が欠けるところはありますが、追憶の森に入っていくところから、そして渡辺謙演じるタクミという中年男性との遭遇や絡みのシーンでは飽きさせないセリフの掛け合いがあった。タクミというなにやら説明のできない謎の人物がアーサーの囚われの心を溶かしていくところが興味深く、最後に先に樹海の森を脱出できたアーサーが再びタクミを探しに森の中に入りそこで見たものはこの映画のハイライトのシーンだと思う。
森で見つけた花が気になっていましたが、花に詳しくはなくともあれは胡蝶蘭、薄黄色の混じった白い胡蝶蘭だったと思っています。コチョウランの花言葉に、「純粋な愛」がありました。監督はこれを知ってこの花を使ったのでしょうか?これは一つの謎ですね。

総体的に見て、この映画の評価は[☆]?[☆]?[☆]?の星3つです。カンヌ映画祭ではブーイングをかけられるほど不評だったそうですが、キャストは良かったこと、森の中でのアーサーとタクミの対話シーンが良かったことで、説得力に欠けた出来栄えながら3つにしました。

最後に、英文サイトを読んでいてわかったこと。この事は映画を鑑賞した人の何パーセントが知っているのでしょう?日本の青木ヶ原の【樹海】が主な舞台になっているのに、実はそこでロケはせずにアメリカのマサチューセッツ州にある森の中で撮影したとのこと、2014年9月に撮影したと掲載されていました。えっー!!と驚いてしまいました。どうして近場で撮ってしまったのか?もし、本当に日本の青木ヶ原で撮っていたら、本物の雰囲気がにじみ出てカンヌ映画祭でのブーイングも減ったのでは?と余計ながら思ってしまいました。(映画の最後のテロップをよく読む人にはバレバレでしたでしょうが)


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