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ノンフィクション作家・関岡英之氏の訃報に接して (その2 ) [日記・雑感]



1月22日夜。

Youtube の検索で、水間政憲氏のフリー動画サイトが目に留まった。そのタイトルには、関岡英之氏の名があった。

* フリー動画【水間条項国益最前線3000】 第162回のタイトルは、【追悼 「盟友: 関岡英之氏」
「 女性宮家最終戦への告知」】で、1月17日にアップされていた。

水間氏の事は例の「日本文化チャンネル桜」の番組でかなり前から知っていた方です。

水間氏はこのご自分のサイトで、関岡氏が昨年5月に亡くなっておられたということにショックと無念の思い、そこから抱いたいわば鎮魂を込めたリベンジを決意されている。

最初に思ったのは、先述の「日本文化チャンネル桜」の水島社長と同様、関岡氏のことを盟友と思っていた水間氏も関岡氏の死を最近まで知らなかったという事実である。桜の番組の1つ、【Front Japan桜】の追悼番組に出ておられた関岡氏の実父(お名前を失念)を含めたご家族の意向によるものなのか、関岡氏が日頃託されていた意思によるものか、私のような一視聴者には計りかねる。しつこいようだが、何故そこまで公にしなかったのか、突然の死としか第三者には思えないからこそ判然としないものがあった。

水間氏の話を聴くと、少なくとも関岡氏との交流は10年前から続いていたと思われる。


【Front Japan桜】に父君と同席されていたウィグル人女性のムカイダイスさんは、聞き間違いでなければ、関岡氏の本と関岡氏の存在を知ったのは、昨年3月に彼女が入院中に同胞のウィグル人から「帝国陸軍ー見果てぬ『防共回廊』」を伝えられた時だという。そこから関岡氏との交流が始まり、この本のウィグル語への翻訳も快諾され、これから色んな交流が深まるかに思えた5月に亡くなられたのだから、なんという束の間の出来事であったろうか! ウィグル語に見事に翻訳された本の紹介文では、関岡氏の写真も掲載されていたのがせめてもの供養になると思う。

余談ですが、私は4月28日(日)の午後、大阪市の中心地でムカイダイスさんとウクライナ人男性のナザレンコ・アンドリー氏の講演を聴く機会がありました。時系列を考えると、あの時のムカイダイスさんは退院後であり、まさに関岡氏とのコンタクトも取れて翻訳に取り掛かっておられていた頃かと想像できます。


彼女は切々とウィグルとウィグル人の現状、中国の悪辣で非道な弾圧を訴えられていた。 我々日本人はいかにマスコミがウィグルの情報を日常的に正確に流さないからといっても、自分たちの中国への認識や国際感覚が欠如していることを恥じ入るばかりだった。ムカイダイスさんか、水島社長が言った言葉か忘れてしまったが、関岡氏は、ウィグルの本来の国家・東トルキスタンやウィグル人に対する「単なる同情や愛を超えた深い理解」を持っておられたという言葉は誠に相応しい見解だとしみじみ思った。


改めて、尊敬する真の国士、関岡英之氏のご冥福を心から祈ります。
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ノンフィクション作家 関岡英之氏の訃報に接して ( その1 ) [日記・雑感]

1月16日の夜、毎日の習慣でその時もYoutube を見ていたら、馴染みのある【 日本文化チャンネル桜】の中の番組、「Front Japan 桜 」の見出しーー『追悼、関岡英之氏』の字に釘付けになった。

「 えーっ! まさか! なんという事か!」
信じられない、信じたくない知らせだった。水島社長が沈痛な面持ちで、私の尊敬する論客の1人・関岡英之氏がなんと昨年中に亡くなっておられたと伝えている。驚きの後は、胸が詰まり、涙が次から次へと溢れてくる。一度も直にお会いしたことも、講演の場でお話を聞いたこともなく、ただネット動画で澱みなく理論整然と見解を述べられる氏の姿、国家の問題を取り上げ我々に警鐘を鳴らされる姿勢に新鮮な驚きや深い共感を覚えていただけなのに、何故こんなに悲しみと喪失感を味わうのだろうか?


思えば、ネット動画で氏の存在と考えを知り、その頃でもなかなか手に入らなかった氏の著作「なんじ自身のために泣け」をようやく市内の図書館で借り読んだことが今でも印象に残っている。アマゾンでレヴューを書いた日付を見ると、2014年2月11日と記されている。この本はその後の氏のキャリアの出発点と言える。関岡氏のそもそもの感性、観察眼、思想の発展を知る上で、外せない存在の本だと思う。


そう言えば、一方的にこちら側は好意を持っているだけで日常会ったこともない全くの他人の存在であるのに、その人の死の知らせに接してこんなに悲しみと無念さ、喪失感を味わうのは、今回で2回目だと気がついた。一度目は、若い人はもう知らない存在だろうが、格闘家のアンディ・フグが急性白血病で亡くなった時である。頑健な肉体を持つまだまだ若いスイス人の彼が、その病気のせいとは言え、あっけなく急死したとメディアが伝えた時、特に格闘技に興味のないおばさんが衝撃を受け、状況を伝えるニュースを聴きながらハラハラと涙が勝手に流れてくるのに、本人の私が内心驚いていた。

このお二人に共通するものはなんだろう?と思った。生のご本人を知らないで勝手な受け取り方かもしれないが、自分の大事なもの、仕事に対する使命感にも似た誠実さを心の奥底で深く感じ取ったからではないだろうか?アンディはまだ若く、関岡氏も58才というこれからの大いなる活躍が期待されていただけに、それを中途で絶たれた、こちら側からすればもぎ取られたような無念さ、悲しみを禁じ得ない。


アマゾンでサイトで見ると、氏の著作はかなり多く、実は、私は氏の本自体は前述の「なんじ自身のために泣け」以外は読んでいない。ただ、いつかこれは絶対に読もうと、「帝国陸軍ー見果てぬ『防共回廊』」は大事に購入していた。下世話な話だが、この2冊はアマゾンサイトでもかなりの高額で売りに出されている。「なんじ自身のために泣け」は思い出に残る本なのでなんとか出版社の努力で新書として発行してもらえないかと願っている。こういう声は、どこかのネットで見かけている。



このブログのタイトルに 、( その1 )と付けていますが、関岡氏の事はまた述べて見たいと思います。



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スピリチュアルが好きな私に起ったスピリチュアルな話 [日記・雑感]

皆さん、と言ってもこれを読むのはあなたお一人かもしれませんが、スピリチュアルの好きな私に起きたスピリチュアルな私の体験が何かの参考になれば幸いです。


9月14日土曜日、猛暑の更新中。
休日の為、遅く起きた。朝食準備に思いの外時間がかかってしまったが、ゆっくりと食事をする。テレビを見たり、雑用を済ませ、11時半には風呂に入る。まだまだ時間はあると思っていたら、外出する予定時間の13時があれよあれと迫ってきた。この日は【スピリチュアルカウンセラー】を受けることになっていた。午前中の間にカウンセラーの先生のホームページを開き、以前開いて読んでいたブログの記事を新たにいくつか読んではいたものの、いざ出かける際に、電話予約を入れた時のメモが見当たらず探すのを諦めた。


家を出て駅に向かうまでに2箇所の信号で待たされてしまい、結局予定の電車をひと便遅らせてしまう。
(これも意味のあることだったらしい)


一度電車を乗り換え、目的地の駅に着きA市内のいつもながら人で混雑した繁華街から脇道に入り直進していくと、右手に特徴のある木製調の大きな扉のマンションがあった。



実は、駅に降り立ち、大通りに出て目的のマンションに歩み始めた時、バッグの中の携帯がなり始めた。このタイミングで鳴るということは「もしや?」という予感。カウンセラーの先生だった!なんと!予約時間は14時丁度だったとのこと。暑い中冷や汗かきながら、先生の電話ナビでカウンセラー室に着いた時は、約束の時間を7分過ぎていた。今回のカウンセリングは初回だったのであれこれ考えた挙句、時間は30分しかとっていなかった。(ああ、時間は巻き戻せないし、自分のミスで仕方ない!)


先ずは、簡単な自分の事柄を一枚の用紙に記入する。氏名、生年月日、それに家族のものも付け加え、あとは住所、電話番号、紹介者の名前ぐらいでした。


さて、先生も短い時間を意識され、「えーっと、あのー」と言い淀んでいる私を見て、一番何を見て欲しいですか?と尋ねられた。

特に去年以来の体調のことを切り出すと、開口一番、憑依霊が付いているとのこと。しかもたくさんの霊が付いているとおっしゃるのです。本来の私のオーラは、ピンク色とグリーンが混じっているとけれど、首や腰のあたりが先生には真っ黒に見えるそうです。ギョ、ギョーッ!となりました。「真っ黒!」思わず声が出ました。その上、「沢山の」と言われたのですから、心の中で「ナンタルチア!」



若い時から結構精神世界やスピリチュアルな事に興味があり、書物もかなり読んできました。実は、先月の8月中旬、あるサイキック能力のある方から、今の体の色々な不調は霊が付いているからだと婉曲に言われていました。その方は病気治しの得意な先生で、今夏たまたま巡り合った本の著者(なんと正真正銘の科学者です)が絶賛されていた為にはるばる遠い所まで出かけ治療を受けました。体調がすぐれない日があまりに続くと人間誰しも藁をも縋りたくなるものです。治療に出かけたのは、それ程精神的にも参っていたということです。しかしながら、結果は大してこれといった回復のきざしが無く、その時言われた「霊が付いている・・・」というこちらが動揺する不安材料が残っただけです。そこで、同じこの先生にかなり通っている友人にこの話をした所、今回のスピリチュアル・カウンセラーの先生を勧めてくれました。



先月訪れた先生は、治療の際、「(あなたは)スピリチュアルな事や精神世界に興味があるでしょう?」と言われ、それは、そういう人は憑依されやすいのですよ、みたいな意味と取れました。今回、カウンセラーの先生は、あなたは優しいから、同情しやすいから霊が取りつきやすいのです、と言われました。次に時間をおかず、除霊しますか?(ともかくそうせざるを得ない、という感じです)と念を押されるので、「はい、お願いします」と即答しました。こうまで言われて我が身に霊をくっ付けて帰るわけにはいきません。その場ですぐに除霊をして頂きました。私には初めてのことなので、じっと目を閉じていました。数分から長くて5分くらいでしょうか。

後から念のため恐る恐る尋ねました。「沢山って言いますと、例えばどんな霊ですか?」
先生が仰るには、「鬼や死んでいる人の霊もあります。」 「・・・・」(ちょ、ちょっとそれ以上は追求する気持ちにはなれません。)


日にちが過ぎ、発端は何だったのか忘れてしまったのですが、今でも印象に残るのは、確か私の育った家庭のことを先生が問いかけ、先生自身がタロットのようなカードを目の前で広げ、相談者の私で無く先生が数十枚と思われたカードの中から3枚だけ開けました。


「あゝ! 」目が釘付けです。一枚目は正に、【ハート アンド ダガー】の絵柄です。先生曰く、「これはあなたの心です。剣が刺さっていますね。あなたは小さい頃(から)とても傷ついていました。」

この絵をよく見ると、刺さっているのは一本だけではありません。英語であらわすと、【Heart and Daggers】になります。剣は私の心を何本も貫いて血液が滴り落ちています。その絵を見て、精神世界で言うところの私のInner Child の姿がビジュアルに現れ、何とも言えずにこれだけ傷付いていた自分を慰めてあげたいような気持ちになりました。二枚目に先生が指された絵柄は、西洋の婦人が大きな剣を下に立てて腰掛けている絵柄です。「この女性があなたのお母さんです。剣はあなたに投げかけた言葉
(不満や愚痴)です。」3枚目を見ると[目]、カードには若い女性が体を伏せて長々と横たわっています。恐ろしい事には、体の周囲にそれこそ何本もの剣が突き刺さっていました。先生が、「倒れているのはあなたです。剣が何本も突き刺さっているけれど、体には一本も刺さってはいませんよ。」と言われ、少しホッとした次第です。


プライベートな事に関わるので、私と母の親子関係のことはここでは触れませんが、カードの絵柄でここまで映し出されると、タロットはよく当たるなあと不思議です。


先生は、あなたのお母さんが悪いのではありませんよ、と繰り返し言われました。母は私から見ても、自覚はなく私にも他の姉達にも愚痴や不満を言い続けた人だった。成長するにつれて意識的にもはっきりとそれを分かって生きてきたが、改めてカードで提示されるとまた新たに自分の潜在意識に奥深く沈潜しているのだと思い知らされた。


最後に、今の私の抱える状況を話して生きたかったが、すでに予定時間を超えていて、10分だけ延長されてお開きとなった。


あなたの場合は、30分ではとても足りず、あと最低一時間は必要でしょうと言われ、次回カウンセリングをまた受けたいという意志を伝えて退席しました。

来月10月某日に予約が取れたので、このカウンセリングの続編は後日書きたいと思います。


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秀吉の【醍醐の花見】を「醍醐寺の花見」で想像する [日記・雑感]

京都に住んでいるときは行けなかった「醍醐寺の花見」にやっと行くことができました。年度末が迫った3月30日土曜日に大阪から出かけました。これで3回目の参加となる京都女子会の企画です。


かの豊臣秀吉が慶長3年(1598年)に催した【醍醐の花見】を、およそ400年後に、同じ場所で想像してみるということはとても心揺さぶられるものです。



JR山科駅に到着後、すぐ近くの地下鉄東西線山科駅から醍醐駅まで、そこからは醍醐寺まで緩やかな傾斜の坂道を13分ほど歩きます。高台に向かって歩んで行くという感じでしょうか。左右はまだ新しい団地かマンションのような建物群があり、それを過ぎると戸建の住宅がやはり左右に並びます。醍醐寺内にある三宝院のパンフレットには徒歩13分とありますが、初めて通る坂道のせいかもっとかかったような気がしました。以前住んでいた伏見区の周辺は平地でしたが、同じ伏見区ながら山というより小高い丘に位置していると感じました。今回は、山科駅で10時集合、お昼は山科駅に連結したホテルでビュッフェランチというプランのため、名物の桜見物と世界文化遺産の三宝院、それに京都府下最古の五重塔などを見て回るだけのコースでした。醍醐寺はそもそも山岳道場として開創された上醍醐と上醍醐への往来としての「基地」としての下醍醐に分けられる。三宝院も五重塔も下醍醐の方である。醍醐寺の全体図を見ると、1日がかりでもとても見切れる広さではなかった。京都一級ガイドのお馴染みの武井氏の案内付きですから、他の気になるエリアは次回に回すとしましょう。



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醍醐寺の総門をくぐると、その近く、左方にどこまでも枝を張り出した見事な桜がありました。その枝の隆々とした力強さに圧倒されます。誰もが我も我もと写真を撮ります。敷地内に700本(記憶では)もある色々な種類の桜があるとか。一斉に咲くというより、時期をずらしながら咲いて行くようです。今の桜の木々は秀吉の時代の孫に当たるそうです。和歌で「 花 」といえば、桜を意味するほど、日本人にとって桜は特別な存在です。赤でもなく、白でもない、ゆかしげにほのかに薄い桃色の花は、人の心に淡い情感や癒しを与えます。この情感を味わえるのは、日本人に生まれた【醍醐味】でしょうか。


受付を過ぎ表書院に入り、建物の中から金箔(今も本物を使っているのでしょうか?)の豪華な唐門を右手に見ながら三宝院の庭に目を見張ります。

京都市内のいくつかの有名な名園は見てきましたが、久しぶりに見たせいか、これほど手を入れて創り上げられた庭は初めてのような気がしました。後から武井氏が下さった醍醐寺の案内パンフレットを見ると、「特別史跡及び特別名勝は、国宝級で、京都では、金閣寺、銀閣寺とこの三宝院だけ(原文通り)」とあったので、さもありなんと改めて思いました。

三宝院は、1115年に第14世座主・勝覚僧正が開いたがあの応仁の乱で焼失。庭は秀吉自ら縄張りして再建したという。この庭には木の橋、土の橋、石橋の三種の橋が配置され、その橋を船を浮かべて巡り、なんと三宝院の建物の下をくぐり、茶室の前の水際で停止するのである。なんと風流なことか!



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「醍醐の花見」は権勢を誇る秀吉が我が世の春、と言わんばかりに花見の大宴会を開いたのだろう、ぐらいの想像をしていたが、実は2年前の「伏見の大地震」で亡くなった人たち(女性たち)への供養、生き残った人たちの癒しというメンタル面でのケアと共に、地震で破壊された道路やその他の工事、大変な痛手を受けた西陣織産業の復興を目的としたものだったと初めて知り、びっくりしました。


大地震で伏見城関係で亡くなった女性は300人といわれるが、ガイドの武井氏によると500人以上はいたとのことだった。秀吉は亡くなった女性達への供養、生き残った女性達への、今で言うメンタルケアの為に、上は大名の女房から下は女中衆まで総勢1300名の女性だけを花見に招いたと説明を聞き、驚いてしまった。それ程大勢のきらびやかな女性達が居て、男は秀吉、秀頼そして他のものは唯一、あの前田利家だけの3人だけである。 並み居る大名、家臣の中で1人前田利家だけ招くとは、それだけ秀吉にとっては心を許した人物だったのだろう。史実はやはり知らないままでは薄っぺらいものになってしまう。


一方、男衆はどうしたのだろう? 以下は武井氏の書かれたパンフレットから引用する。

【醍醐の花見】は、秀吉が実施した【北野大茶会】と双璧をなす、一世一代の大イベントだった。秀吉配下の諸大名などの男衆は、伏見城から醍醐寺までの沿道(5.5キロらしい)の警備や会場に設営された七つの路地茶屋の運営に当たる裏方となった。


女御の着物の手配は、薩摩の島津義久に命じ、女御は3回着替えたので、3900組の着物が準備された。(現在のお金に換算すると、39億円相当)………女性達を着飾らせるだけでなく、痛手を被った西陣織の産業復興の支援となった。



【醍醐の花見】は1598年4月20日に催された、秀吉は秋にも【もみじ狩り】をする予定だったという。しかし、彼は同年8月18日に63才で亡くなった。



今回の醍醐寺での花見は、見事な桜の咲きぶりや枝の力強さに見惚れつつ、為政者秀吉のスケールの大きさを知り、秀吉も堪能した醍醐寺の名庭三宝院で桃山時代の遺産を味わうことができました。



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消えた日本人1億1千万人・・・少子化の闇 [日記・雑感]



11月4日(日曜日)、大阪市内難波OCATで新教育者連盟主催の講演会が開かれた。


13時から、新教連理事長・代田 健藏 氏の『 生命の教育 』というお話があった。戦後体制の下、日本人が変容してきた状況に触れられ、現代の日本人は「請求書ばかり出して、領収書がない」と言われたことが非常に印象に残った。色々な家庭、教育問題を話される中、後半は、いじめ問題の相談に回答された実例を挙げられた。相談者の親子に対し、イジメられる子はもちろん、イジメる子も本当は同じ良い子なのだと諭され、① 毎朝自分の方から明るく笑顔で「お早う!」と挨拶する ② 違うクラスの子に、いじめっ子のことを褒め、「○○ちゃんは素晴らしい、○○ちゃんにあこがれているんだ、でも、これは内緒よ」と伝える といったアドバイスをされたという。当事者の女の子は素直にそのことを実行し、後日イジメがなくなったと報告があったそうだ。



因みに、「挨拶」の挨の字は、開くという意味が、拶の字は、迫るという意味があり、「心を開いて一つになる」という意味になると話された。①の、イジメられている子供が自分から明るく積極的に声をかけるというのはまず自分から自分を相手に開放していくという行為で、想像できたアドバイスであるが、②の、イジメる子供を間接的に褒める、称えるという行為、しかも、相手に直接伝えるのではなく周囲の人たちに話す事はなかなか思いつかなかったことである。



イジメの対処方法として、世間では、転校したら良いという意見も多いが、例え、その時期イジメの行為者や現象から逃げることができても、更に上の学校に進んだ時、就職した時、婚家先と、いじめの問題は今後も起きうることなので、問題が起きたら出来るだけ早い時期に解決しておく方がいいと言われ、成る程と思った。



代田 先生の指導をそのまま素直に実行した女の子には感心したことに加え、挨拶してそれを無視されてもがっかりすることなく、これで私は1ポイント取ったと思えばいいと、その子が救われる受け止め方を添えられたところに先生の配慮ある指導を感じます。


そのほか、自閉症だっ小学生の女の子が、お母さんの「褒める教育」で絵を描く才能を発揮している実例も披露された。


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後半の講演は2時から始まり、日本航空大学校 学長の浅川正人氏の「日本人としてのほこりある教育を実践して」というタイトルの講話があった。


20年ほど前、著書「熱血先生奮闘記」を出された頃は、記憶では日本航空高校の教師をされていた。その石川校の校長を経て現在は大学校の学長になられたことを知った。「生命の教育」の平成29年11月号の記事によれば、浅川先生は「道徳訓育」を高校1年生から大学校1年生まで週1時間、「日本人としての誇りを持つ」ことを中心に置いて教えていると言われる。そうした日本人の心を学んでいることが、ラグビー部が〝花園〟に12年連続出場したり、野球部が創部7年目で甲子園出場したりと部活での成果を上げているだけでなく、この少子化の時代、高校は720名、大学校は485名と入学希望者がどんどん増え、航空大学校は創立以来、13年連続で就職率が100パーセント、キャビンアテンダントは平成29年度に21名合格するほどの全国トップクラスインを果たした秘訣だとはっきり言われた。



さて、今回浅川先生の話で最も衝撃的だったことは、先進国一の堕胎天国日本の実態である。先生の「生命尊重の教育」の話の糸口は、先生自身の誕生時のことも出され、経済的な理由で中絶、堕胎をするべきではないと強く主張される。先生は、子供はちゃんと「福田 」を持ってうまれるから、その時の経済事情で簡単に中絶すべきではない、自分が生まれてから自分の家庭の経済が段々上向きになって行ったことをユーモアたっぷりに話された。そもそも堕胎、中絶という行為は殺人である。私は女性で、結婚をして子供を授かったが、人生においてこの中絶という罪を犯さなかったことを良かったと心から思う。



敗戦後の昭和23年、優生保護法が制定された。戦後のベビーブームの到来で、大和民族が再び増加するのを恐れた占領軍が、日本弱体化の為母体を保護するという隠れみのを使い、経済的理由があれば胎児を中絶出来る(殺せる)という法 (浅川先生の言葉によれば、毒まんじゅう入りの法律)を作らせた。


この優生保護法による中絶数の多さは20代後半の頃から、先の大戦で亡くなった方よりはるかに上回るとか聞いてはいましたが、戦後の70数年間で、なんと【1億1千万人】に達すると聞き驚愕すると共に怒りがこみ上げてきました。これは類推ではなく、厚生労働省統計情報部による、昭和24年から平成24年までのデータを示して説明された。折しも、日本文化チャンネルさくらの水島 総氏が10月末か11月初め頃の番組でこの【1億1千万人】という中絶数を話題にされ、この講演会での数と一致している。


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最近、一庶民の私さえ、移民導入法には国民として危機感を抱いていた。政府や経済界の意向は労働力不足や今後も続く少子化対策だというが、問題のすり替え、現状認識のなさを露呈している。


今回次のことを記したい。
先ず第一に、優生保護法は言葉のまやかしで、胎児殺人法!
日本人は戦後長きに渡り、1億1千万人という生命を抹殺するという悪業を犯してきた
(勿論、母体そのものが危うい等特別な理由は認められるべきだと思う)

1億1千万人(1人の母親が何回も中絶を繰り返す事例もあるにせよ)の胎児が殺されたと
いうことは、のべで1億1千万人の殺人行為が存在する(父親の数を入れると一体どうな
るのだろう!


第二に、 今移民受け入れの問題が起きているが、自国民を殺し、外国人で穴埋めするのは論外!
国内の非正規労働者やニート、引きこもりの人は数百万人に達するという。保守系番組で
は、この人たちを生かし、再教育して行く必要性を主張しているが、先ずは、母体保護法
(旧優生保護法) の改正が必要。


占領軍に仕組まれたものとはいえ、母体保護法によって命を失われた日本人は今の人口に迫るものと知り、国民の犯した悪業に暗澹たる気持ちになりました。このブログを読んで賛同する方が1人でもいて、選挙民としてどこかで意思表示して下さると嬉しく思います。


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言葉は虚しい [日記・雑感]

日の終わりに感じたこと

言葉は虚しい

事実だけが残っていく

でも、人は心中語を常に自分の母国語で語っている

これも事実である

だから、虚しいと知りつつ、自分の生活や人生を語ろうとするのだろう

私もいつの頃からか、多分、中学、高校生の頃幾つかの文学と言える本に出会い

言葉の持つエネルギー、影響力に感動し、

いつか自分もこの本の作者のように書きたい、本を作りたいと

心の奥底で思うようになった


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現在、既に60代後半に差し掛かっている

人生50年は昔の話とはいえ、人は5、60年も生きると

正と負の遺産を持っていると思うし、正負の割合に

関わらず死への覚悟もしないといけない時期にある

呆気ない死、予感された死、満足、不満足の死、様々だが、

テレビ、新聞、メディアで、名の売れた人たちの死亡のニュースを聞くと、

「さあ、あなたなら、あなたが今、今日という日に死んだら、どんな気持ち、感慨を持って死ぬだろう?」と自問する

今の私の状況が単純に言って幸せならば、誕生以来これまでのことを振り返りつつも、

大満足はしなくとも、「まあ、これが私の人生だった」と認めるだろう

しかし、少なくとも主観的に観て、ただ、生活のために毎日毎日今の仕事をこなしていく状況は

心の奥底の私は満足していない

私の年齢で仕事を与えられている、ことは確かに有難いことだと思う

魂の住処の住人、もう1人の私は今日も私を認めてくれていない



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カズオ・イシグロ氏の記憶•••••「 遠いやまなみの光」(長崎の記憶) [日記・雑感]

先日、10月5日、日系英国人作家カズオ・イシグロ氏(62才)が2017年ノーベル文学賞を受賞したというニュースが入りました。イシグロ氏は成人後に英国籍を取得していますが、ご両親は日本人です。ノーベル賞の受賞者は「出生地主義」を採用しているので、英国人ではなく日本人の文学賞受賞者としては、川端康成、大江健三郎に続く3人目の作家となります。


カズオ・イシグロ氏、日本名石黒一雄氏の小説は読んだことはありませんが、その名はハリウッド映画の「日の名残り」(小説と同じタイトル)を見たときに知っていましたし、昨年日本でも、綾瀬はるか主演「私を離さないで」のテレビ番組が放映されていて、後半から見だしていたものの、その重いテーマに引きずり込まれたのを思い出しました。


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今回の受賞で、改めて検索し直すと、デビュー作「遠いやまなみの光」の中で、氏が生まれ5才まで住んでいた長崎が描かれていることを知った。「遠いやまなみ」という言葉から、博多で生まれ長崎県で育ち、後年になって長崎市内に数年勤務していた私には、長崎という平地が少なく周囲をやまなみが囲む港町の情景が懐かしく目に浮かんで来ました。氏がわずか5年ほどを過ごした、原爆が投下され敗戦後10年に満たない長崎市内と、私が通った平成の時代の長崎市内の情景は格段の違いがあるでしょうが、あの背中に感じる山並みと入り組んだ海の間の僅かな平地、山の斜面にまで建ち並ぶ家々、そして港を取り囲むやまなみは昔も今も変わらない原風景だと思う。



カズオ•イシグロ氏については日本のいろんなメディアが記事を書いていたが、JIJI.COMによれば、現在イシグロ氏は新作小説を執筆中で、漫画を共同制作したいと表明。グラフィックノベルの制作について話し合っているようです。日本で漫画を読んでいた子供時代と再会するという氏の思いがあるようです。


江戸時代、鎖国状態にあった日本で唯一海外に開かれていた天領の港町長崎の土地柄、アメリカに原爆を落とされ、キリシタンに縁が深い長崎、国内の様々な港町とはまた違った独特の歴史と雰囲気を持つ町で、生まれてから僅か5年ほどを過ごしたとは言え、この地の空気を吸い五感で味わった幼い男の子が、日本人の両親に連れられ遠い異国の英国に移り住みことになる。今でこそ海外に渡航したり移り住む人々は大勢いるが、半世紀以上も前に、周囲に日本語を話す人も皆無の、自分が見たこともない皮膚や目や髪の色の異なる風貌の人々の中に入って行く一人の幼い心、姿を目に浮かべると、それだけでもストーリーになってしまいそうである。幼い男の子が異国、異文化で味わい体験して成長していった人生を想うと、イシグロ氏や彼の作品を理解する手立てになるかも知れない。家の外では英語、家庭では両親は日本語を話していたという。今でも日本語の聞き取りはかなり出来るらしい、とネットで書かれていた。(日本語はほとんど話さない)


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10月6日の産経新聞にとても興味深いイシグロ氏の言葉が載っていた。 (以下は、記事のまま)

「いつか日本に帰国するかも知れないとずっと思いながら生きてきました。英国に渡った当初は日本に対する記憶は強かった。ところが20代になって『記憶としての日本』というのが私の中でどんどん薄くなっていく。今振り返ると、小説を書くことは私の中の日本を保存することだった。世界、空気の全てを」



産経新聞によると、5日、イシグロ氏は受賞発表後の記者会見で、「私の世界観には日本が影響している。私の一部は、いつも日本人と思っていた」と述べた。


イシグロ氏が通っていた幼稚園の担任だった田中先生(91才)は、当時のイシグロ氏のことを「おとなしく、物静かな子供で、絵本をよく読んでいたことが特に印象に残っている」と語っている。


今注文中の「遠いやまなみの光」が届くのが楽しみです。


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母を亡くして ー 平成29年の暑い夏 その② [日記・雑感]

父が12年前の平成17年3月に亡くなり、今年の3月が13回忌だった。母が先月7月になくなったとき、何故だか父の時ほどさめざめとした涙は出てこなかった。 それはちょうどこの時期と重なり、母とは関係のないあることが露呈したのが原因だが、1つは、去年、いや数年前から、心の中でいずれは訪れる母との別れに対して覚悟というか動揺しない気持ちを備えていたからだと思う。どちらかと言えば、中年の頃から体の不調や持病を抱えていて、70才前のある時期、このままだと先が長くないかもしれないと家族が思ったこともあった。92才という長寿を得られたのは、今の現代の医療や介護施設の充実、介護士の方々のお陰だと思う。それに、母が70才前に体調を崩した時、ひどく動揺し心配した父が、母の生前供養(亡くなると永代供養に替えられる)をすることに同意して申し込みをしてくれたことがあった。そのことで何か目に見えないお陰を得たのではと、私は密かに思っている(多分、姉たちは否定するだろう)。ひと世代前の祖父の生きていた頃(祖母は戦前にすでに亡くなっている)の医療の対応や社会状況であればもっと早くに命が尽きていたかもしれない。


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92年間、母から見ると、短くて長い、長くて短い人生だったと娘の私は勝手に思っている。19才で結婚する前、つまり生まれてから10代までの事は自分からは進んで語らず、尋ねても尋ねても中々全てを語りたがらなかった。特に、小さい頃生き別れとなった実父の話、後に一度再会した時の話などは口が重く辛そうだった。そこに母の受けた心の傷の深さ、苦しさを見る思いがする。日本の戦前、戦中の時代や世の中を背景に、実父(養子)との早い離別が母の心に色濃くトラウマとなって印象付けられているのは娘であればすぐに察知できていた。何となく入ってきた情報によると、実父は外に女性ができ、養子先の義理の両親(母の祖父母)との折り合いが悪く追い出されたとも聞いたことがある。しかし、当事者の家族のそれぞれはずっと以前に亡くなり、今となっては真相は確かめようもない。頑なになっていた 母の性格では真実を突き止めたいとも思わなかったはずだ。当時は思い知る由もなかったが、後付けすると、私が中学1,2年生の頃か、父親が危篤か死亡したとの連絡が入った時さえ、母は行くのを断ったらしい。その事実だけを淡々と話し醸し出される雰囲気だけでも、こんなに男親への感情を断ち切りたいのかと、意志の強さに驚きそれ以上深くはさわれない思いを抱いた。片親がいないからという理由だけではないだろうが、豊かでない暮らしも潜在的に思春期の娘には重石となり、憎しみとは言いたくはないが、様々な悪感情が芽生え、男性への不信感から結婚した夫への愚痴や不満がより強まっていったのではないかと、娘の私は憶測している。



和菓子屋を開いていた母の実家は、戦時になるとかなり年上のたった一人の兄が福岡にある渡辺鉄工所に召集され、間も無く店をたたんで曽祖父母、祖母、母たち家族は博多に移り住んだ。この辺の詳細な経緯は私には知る由もない。母が亡くなり、ひとまわりほど年上の従姉が以前渡してくれた母の実家の家系図を改めて見ると、曽祖父は終戦の前の年に亡くなり、曽祖母は私が生まれた同じ年の10月に亡くなっていた。母の唯一の兄は、なん年後か結核になり、当時は保険での医療が受けられず実家に経済的負担が重くのしかかって来たというのは聞いたことがある。私の祖母、母の実母は、物のない収入も定まらない苦しい生活の中、毎日息子のいる病院に通っていたらしい。兄家族にはすでに息子2人、娘2人の子供達がいたが、この頃の様子は従姉から聞くことができた。母は変な言い方だが、基本的に優しい人だったが、この祖母は無条件に誰に対しても優しい女性だったらしい。伴侶には恵まれず、成人し家庭を持った息子は戦時中の苦しい生活の中、大病に侵され入院してしまう。普通の女性ならば、我が運命や人生を嘆きたいところだ。この祖母の人となり、生活ぶりについては別の機会に置いておきたいと思う。


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父親との縁が薄かった事は多いに同情する思いにかられるが、母は大正末期14年生まれで、好き嫌いが激しく神経質なところは多々あったが、ほぼ生涯を通して細身で芯の強い女性だった。子供から言ってはなんだが、身なりに自然と気を使う清潔好きで綺麗な女性だった。昔の古いアルバムや私の手元にある写真のどれをとっても、良い加減な格好をした姿は見られない。高価なものは身につけていないが、子供心にもいつもこざっぱりとした服装をしていた。そうした母を一言でどう言えば良いだろう? 精神的にも経済的にも苦労し続けた母だったが、どこかきっぱりとした姿勢があった。人は皆長所も短所もあり、母だって両方共盛りだくさんだったと言ったら、霊界に行った母は怒るだろうか、苦笑しているだろうか? 日頃母を思っている時に浮かぶ言葉が出て来た。「清廉潔白」、そうだこれだった。皮肉にも、母がずっと不満を愚痴を言い続けていた父もこの「清廉潔白」という言葉がぴったりの人だった。そうだ、二人はここで一致していた! 同じ戦前の教育、同じ大正生まれの夫婦、二人には共通するものがあったんだ。 何故父と母はこの世で結婚し、私たち三姉妹を育てる運命だったのだろう? 思えば、父の方は、幼児期に実母を病気で亡くしていた。父は言わなかったと思うが、母が自嘲的に苦笑しながら、片親がいない同志で縁があったのだろう、と呟くのを聞いた覚えがある。何となく自分の結婚や人生を起きたままに受け入れざるを得ないという感じである。我が家の恥、また亡くなった母をけなすようで心が痛むが、母の最大の欠点は、伴侶となった夫の悪口、愚痴、不平、不満を生涯言い続けたことである。白状すると、認知症になってからもそれは変わらなかった。これには本当に参ってしまった。もうそうがいりまじりながら、なお夫の悪口を言い続ける習性にあっけにとられることが何度もあった。正直、これでは父も浮かばれないと思ったものだ。戦後、一歳に満たない長姉を連れた引き揚げ者として博多では舅との同居が待っていた。経済的にも、物質的にも本当のゼロからのスタートだった。



それからの人生も、母の晩年も豊かさを満喫できるほどの生活ではなかった。92年の長い一生、仲は悪いとはいえ、夫と離別せず忍耐強く頑張り続けた。これだけ母は忍耐強い人だったのに、子供たちが小さい頃からずっと父親の悪口を聞かせ続けた。ああ、そのことだけは母を責めたくなるが、これが生きている人間そのものだろうか? この私も人から見れば、いや神の視線を受けると1つや2つのカルマ「業」を持っているのだろう。母も私たちも知らずして犯しているカルマがあるのだと思い、他人や自分を時には許さないといけないのか? 先に「清廉潔白」という一言を送ったが、その裏には「忍耐」という言葉が背中合わせになっている。色々なことを忍耐強く頑張りぬいた母、それは私たち子供3人を育て上げるためだった。記憶として蘇る幼児期から1つ1つ浮かんでくる母の言動、私にかけてくれた愛情、母が私にかけてくれた愛情は認知症になってからもそのうっすらとした微笑みからしっかりと感じていましたよ。 母さん、有難う!



今までは肉体を持った母親として私を育て上げ、愛情をかけてくれました。もう目の前に見える体を持った母としては存在していないけれど、それ以上に確かに私の記憶の中で、この心の中で、私が生きている限り生きています。どうか、霊界から私や孫たちを見守って下さい。


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母を亡くして ー 平成29年の暑い夏 その① [日記・雑感]

母が亡くなった。


92才だった。80才になる前に認知の症状が出始め、半年か一年後に父が亡くなると一段と症状がきつくなっていった。それから数年は【ケアハウス】にそのままいることができたが、認知症独特の言動が激しくなり、【グループホーム】に移らざるを得なくなった。ここのホームでは9年ほどお世話になったが、今年平成29年1月7日、体調が悪くなり救急車で主治医の病院に運ばれ、今月7月27日夜8時頃に息をひきとる迄その病院にずっと入院していた。入院中はベッドに横になったまま、つまり「寝たきり」だった。



5月の連休にお見舞いに行くと、目をぼんやりと開けていて、手を握ると寝たきりの高齢者とは言えないくらい強く握り返して、しかも途中で手を緩めたりやめたりはせずしっかりと握ったままで、こちらが上下に振るのを嫌がらず、一緒に見舞いに行った次姉も私も内心驚いた。昔から、母は器用で、よく家事労働をしていたせいか、親指は外側にカーブを描いて反っていたが、晩年になるにつれさらに反ってきたと思う。70才以降の母に会うたび、これは栄養の摂り方のせいなのだろうか、老化のせいなのかと、母の長年よく働き続けた血管が見える両手を見ながら思っていた。母は、私が物心ついたころからほとんど丸々と肥えた事はなく痩せていた。


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6年数ヶ月前までは、何とか私の顔が分かり、施設に会いに行くと「ああ、〇〇さんね?」と微笑んで細く柔い声で呼んでくれた。母は、私や姉たちが思春期を迎えた頃からか、娘に「〜さん」と呼んでいた。気が強く、間違ったことは許さないという厳しさはあったけれど、それを外すと優しい子供思いの母だった。父は母に劣らず子供思いの愛情深い人だったが、そこは男親なので、手紙や書き物以外では「〜さん」付けはしなかった。



平成23年5月、それまでいた母の住む市内から仕事の都合で遠い県外に私が移ると、予想していたように、私が会っても微笑むだけで誰かは分からなくなっていた。そんな母と若い頃や中年の頃の気丈な母が二重に見えると、本当に切ないものがあった。短いような長いような母の人生の移ろい。魂はともかく、人の肉体は個人差はあれ変化し衰えて行くものだと自分も同じ年数を重ねながら認めざるを得ない現実。心のある部分では、母が幼い頃生き別れた実父のことを封印し、姑は居なかったものの、舅や小姑に辛くあたられた結婚生活。敗戦後の引き揚げから極貧は味わっていないものの人生のほとんどを占めた経済的な不安。認知症になる以前も、それ以後も、一人の老いた女性、お喋りでなくなった母の顔を見る悲しさ。しかし、可哀想なのは、見ている私の方だったかもしれない。片親育ちを味わい、台湾で結婚生活が始まったものの、終戦の翌年、昭和21年に博多に引き揚げてゼロからスタートした生活、見合い結婚した父との不和(これについてはいつかで述べるかもしれない)、長年安定しなかった経済的貧しさ、こんな中で独りよがりはあったけど精一杯生きぬいた母の苦労に十分に報いられなかった娘だから。


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40、50代の頃、肩や腰の痛みを抱えていたり、色々体調の悪い時があったにせよ、よく喋り、家事や一時期やった旅館の仕事を日々こなしていた元気な母の姿が蘇ってくる。写真はやはり有難いものだ。戦後間もない昭和20年代から時折撮って残してある写真のおかげで、父も含め、母や私たち家族のその時々の思い出スナップを見ると、甘酸っぱい気持ちになる。時折、そして今回のように写真を取り出し眺めていると、過ぎてしまった過去の出来事や様々な感情をその度に追体験できる。殆どの人は皆それぞれに何らかのトラウマを抱えていると私は思うが、母も心中にしっかりとトラウマを沈めて、その頑な気持ちが父との不和を強めていたと、自分も高齢者に近づいていくにつれしみじみと理解出来た。戦後、昭和2,30年代にまだ着物姿で私たち三姉妹を育ててくれた母の頑張り、それを支えたのは大正末期生まれのあの時代の女性の精神力だろうか? 母独自の気丈な性格によるのだろうか? いずれも断定はできないし、いずれも否定できない。ただ、母の頑張り、苦労には感謝するのみです。


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佐藤優氏の「手帳クリニック」•••••President Online のコラムから [日記・雑感]

ネットサーフィン中で、President Online のコラムに目が留まった。
元々、President の2015年8月3日号 に出た記事が今日の9月7日付で掲載されたとわかった。

タイトルは、【佐藤優氏の手帳クリニック】です。

佐藤氏は元外務省主任分析官で、作家(1960年生)で、以前より普通人から見れば超人的な読書家として知っていました。その人物の手帳ですから自ずと興味が湧きます。以下は、要約したものです。

予想通り、先ず、その仕事量に驚きました。

原稿書き: 月 1200枚

面会者 : 月 130人

インプット : 1日 4時間 ( 情報収集、読書、語学 )


これだけの仕事量のスケジュール管理や情報管理を一般学生が使う【コクヨのノート】一冊でやっているのにまた驚きです。このノートの他には、中長期の予定の為【手帳】を使って、デジタルではなくアナログ管理をしている。

❶《1ヶ月のスケジュール》について

前述の【KOKUYO の CAMPUS ノート】を使う

最初の見開き2ページ ー 1ヶ月のスケジュール書き込み
左側 ー 原稿の締め切り 右側 ー アポの予定

その他のページ ー あらゆる書き込みをしていき、1,2ヶ月で使い切る

(注)スケジュール管理ページは4ヶ月分の予定を書き込むため、最低4~8冊は手元に置く

佐藤氏も、以前はデジタル管理をやってみたが、かえって効率が落ち、自分個人の仕事には他人とデジタル共有の必要なし、という結論。

私には特異というか、特徴的な使い方だと思えた所 ー あらゆる情報を書き込む

例 * その日の出来事
* To Do リスト
* ふと浮かんだアイデア
* ロシア語の練習
* その他あらゆるメモ

といったすべてのことです。
こういうメモは、仕事上遡るのは100日前までなので、量的にはアナログで十分。

《例外的なデジタルツールの利用》

Dropbox ー 単行本のゲラ
Evernote ー 名刺や紙の資料のスキャン

注意! 入れる情報の取捨選択


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❷《スケジュールは2年手帳を使う》

佐藤氏は、【博文館新社の2年手帳】(こげ茶)を使う

ここで繰り返しになるが、
ノート ー 予定以外の全記録
手帳 ー 未来の予定

佐藤氏の持論? 夢や目標は、基本的に自分の頭の中に刻み込まれているはず、だから手帳に書く意味はない。書かないといけないようなら、無理やウソがある

❸《1日を振り返り、記録する》

1日のメイン ー その日の出来事
何時に起きて、誰と会って何を話したかなど、仕事、プライベートに関わらず
細かく書く

ノート一冊に時系列に書くと、後から必要な情報が自分の行動記録とリンクして引き出しやすい。

外務省時代 ー 秘密の仕事上、記録はリスクになる
作家業 ー 記録そのものが武器

*****行動記録は、東京拘置所に入り、暇が有り習慣づいた

毎日の行動記録 ー 可視化すると、不要な仕事や非効率な時間の使い方が把握できる
⇨時間の使い方が上手くなる


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❹ 《1日4時間はインプットを!》

【佐藤氏曰く】 自分はshort sleeper だが、限られた時間の生産性を高める

原稿書き ー 【夜】より【朝】!(朝が基本的に質のいいものが書ける)
所要 ー 時間集中できる所まで書く、最低3~4時間。調子良ければ、10時間以上

集中力の途切れた時の対処法 : ① 飼い猫と遊ぶ
② 喫茶店に行く( 読書、語学、数学をやる)
**読書では、マハン、ホーファー、マッキンダー著の地政学の本
(そういえば、9月8日の【虎ノ門ニュース】で確か青山繁春氏も地政
学の大切さを話されていたのが印象に残っています)

1日のアポの数 ー 一件につき3人程会う(月 120~130人)
【佐藤氏曰く】 50代以降、新しい人と会う意味はない。この年齢で人脈開拓というのは、ろくな人脈
が無いという裏返し、また、時間の無駄。

❺ 《明日できることは今日やらない》

おやおや、あの有名な格言「今日できる事は明日に延ばすな」と反対ですね!?

【佐藤氏曰く】 前倒しの発想はかえって管理が難しい。緊急の仕事と先送りしていい仕事との区別が
曖昧になり、目の前の仕事の多さにパニックになる
仕事にはタイミングがある。基本的には、締め切りの当日に書く。土壇場でテーマを
変える時もあり大変だが、話題が古くなるより良い。いわば綱渡りの仕事はリスクが
あるが、綱から落ちなければいい。

佐藤氏は、緊張感を持ってギリギリの状況で書くのを良しとされているのが分かる。


《足りない時はお金を払う》

さて、佐藤氏は確か4,5ヶ国語(それ以上?)を操る語学の天才と読んだことがある。

最後に、社会人が短期で語学の成果を得るためのアドバイスなるものが佐藤氏の実生活を通し3つ出されます。

【アドバイス】 ① 理想の条件 : お金を払い、マンツーマンのスクールに通う
② 教師の条件 : ネイティヴであるのは勿論、トップクラスの教育を受けている人
③ 緊張関係の学習 : 個人契約ではなく、スクールを通す

【佐藤氏のチェコ語のレッスン】
① 時間 : 1時間15分
② 授業料 : 1万円/ 時間
③ 内容 : ヤン・フス著 「教会について」(チェコ出身、宗教改革者)


*****感想*****

以上、佐藤 優氏のスケジュールや毎日の管理方法を本文より短めにまとめたつもりですが、結構な量となりました。私にとって役に立ったこと、確認できたことは、
① 現在活躍中の作家の実際のエネルギッシュな仕事ぶりが分かったこと
② これまでの仕事や生活の管理が上手く捌けず、もやもやしていたのですが、とにかく1冊の
ノートにスケジュールも何もかも時系列に書き入れていく点が、余計な神経を使わずに続け
られる気がしたこと
(大小別、項目別、月別 などと分けると上手くいかない経験がありました)

さあ、これからは管理の管理に頭を悩まず、一冊に書き込んでいくとしましょう!


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