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母を亡くして ー 平成29年の暑い夏 その② [日記・雑感]

父が12年前の平成17年3月に亡くなり、今年の3月が13回忌だった。母が先月7月になくなったとき、何故だか父の時ほどさめざめとした涙は出てこなかった。 それはちょうどこの時期と重なり、母とは関係のないあることが露呈したのが原因だが、1つは、去年、いや数年前から、心の中でいずれは訪れる母との別れに対して覚悟というか動揺しない気持ちを備えていたからだと思う。どちらかと言えば、中年の頃から体の不調や持病を抱えていて、70才前のある時期、このままだと先が長くないかもしれないと家族が思ったこともあった。92才という長寿を得られたのは、今の現代の医療や介護施設の充実、介護士の方々のお陰だと思う。それに、母が70才前に体調を崩した時、ひどく動揺し心配した父が、母の生前供養(亡くなると永代供養に替えられる)をすることに同意して申し込みをしてくれたことがあった。そのことで何か目に見えないお陰を得たのではと、私は密かに思っている(多分、姉たちは否定するだろう)。ひと世代前の祖父の生きていた頃(祖母は戦前にすでに亡くなっている)の医療の対応や社会状況であればもっと早くに命が尽きていたかもしれない。


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92年間、母から見ると、短くて長い、長くて短い人生だったと娘の私は勝手に思っている。19才で結婚する前、つまり生まれてから10代までの事は自分からは進んで語らず、尋ねても尋ねても中々全てを語りたがらなかった。特に、小さい頃生き別れとなった実父の話、後に一度再会した時の話などは口が重く辛そうだった。そこに母の受けた心の傷の深さ、苦しさを見る思いがする。日本の戦前、戦中の時代や世の中を背景に、実父(養子)との早い離別が母の心に色濃くトラウマとなって印象付けられているのは娘であればすぐに察知できていた。何となく入ってきた情報によると、実父は外に女性ができ、養子先の義理の両親(母の祖父母)との折り合いが悪く追い出されたとも聞いたことがある。しかし、当事者の家族のそれぞれはずっと以前に亡くなり、今となっては真相は確かめようもない。頑なになっていた 母の性格では真実を突き止めたいとも思わなかったはずだ。当時は思い知る由もなかったが、後付けすると、私が中学1,2年生の頃か、父親が危篤か死亡したとの連絡が入った時さえ、母は行くのを断ったらしい。その事実だけを淡々と話し醸し出される雰囲気だけでも、こんなに男親への感情を断ち切りたいのかと、意志の強さに驚きそれ以上深くはさわれない思いを抱いた。片親がいないからという理由だけではないだろうが、豊かでない暮らしも潜在的に思春期の娘には重石となり、憎しみとは言いたくはないが、様々な悪感情が芽生え、男性への不信感から結婚した夫への愚痴や不満がより強まっていったのではないかと、娘の私は憶測している。



和菓子屋を開いていた母の実家は、戦時になるとかなり年上のたった一人の兄が福岡にある渡辺鉄工所に召集され、間も無く店をたたんで曽祖父母、祖母、母たち家族は博多に移り住んだ。この辺の詳細な経緯は私には知る由もない。母が亡くなり、ひとまわりほど年上の従姉が以前渡してくれた母の実家の家系図を改めて見ると、曽祖父は終戦の前の年に亡くなり、曽祖母は私が生まれた同じ年の10月に亡くなっていた。母の唯一の兄は、なん年後か結核になり、当時は保険での医療が受けられず実家に経済的負担が重くのしかかって来たというのは聞いたことがある。私の祖母、母の実母は、物のない収入も定まらない苦しい生活の中、毎日息子のいる病院に通っていたらしい。兄家族にはすでに息子2人、娘2人の子供達がいたが、この頃の様子は従姉から聞くことができた。母は変な言い方だが、基本的に優しい人だったが、この祖母は無条件に誰に対しても優しい女性だったらしい。伴侶には恵まれず、成人し家庭を持った息子は戦時中の苦しい生活の中、大病に侵され入院してしまう。普通の女性ならば、我が運命や人生を嘆きたいところだ。この祖母の人となり、生活ぶりについては別の機会に置いておきたいと思う。


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父親との縁が薄かった事は多いに同情する思いにかられるが、母は大正末期14年生まれで、好き嫌いが激しく神経質なところは多々あったが、ほぼ生涯を通して細身で芯の強い女性だった。子供から言ってはなんだが、身なりに自然と気を使う清潔好きで綺麗な女性だった。昔の古いアルバムや私の手元にある写真のどれをとっても、良い加減な格好をした姿は見られない。高価なものは身につけていないが、子供心にもいつもこざっぱりとした服装をしていた。そうした母を一言でどう言えば良いだろう? 精神的にも経済的にも苦労し続けた母だったが、どこかきっぱりとした姿勢があった。人は皆長所も短所もあり、母だって両方共盛りだくさんだったと言ったら、霊界に行った母は怒るだろうか、苦笑しているだろうか? 日頃母を思っている時に浮かぶ言葉が出て来た。「清廉潔白」、そうだこれだった。皮肉にも、母がずっと不満を愚痴を言い続けていた父もこの「清廉潔白」という言葉がぴったりの人だった。そうだ、二人はここで一致していた! 同じ戦前の教育、同じ大正生まれの夫婦、二人には共通するものがあったんだ。 何故父と母はこの世で結婚し、私たち三姉妹を育てる運命だったのだろう? 思えば、父の方は、幼児期に実母を病気で亡くしていた。父は言わなかったと思うが、母が自嘲的に苦笑しながら、片親がいない同志で縁があったのだろう、と呟くのを聞いた覚えがある。何となく自分の結婚や人生を起きたままに受け入れざるを得ないという感じである。我が家の恥、また亡くなった母をけなすようで心が痛むが、母の最大の欠点は、伴侶となった夫の悪口、愚痴、不平、不満を生涯言い続けたことである。白状すると、認知症になってからもそれは変わらなかった。これには本当に参ってしまった。もうそうがいりまじりながら、なお夫の悪口を言い続ける習性にあっけにとられることが何度もあった。正直、これでは父も浮かばれないと思ったものだ。戦後、一歳に満たない長姉を連れた引き揚げ者として博多では舅との同居が待っていた。経済的にも、物質的にも本当のゼロからのスタートだった。



それからの人生も、母の晩年も豊かさを満喫できるほどの生活ではなかった。92年の長い一生、仲は悪いとはいえ、夫と離別せず忍耐強く頑張り続けた。これだけ母は忍耐強い人だったのに、子供たちが小さい頃からずっと父親の悪口を聞かせ続けた。ああ、そのことだけは母を責めたくなるが、これが生きている人間そのものだろうか? この私も人から見れば、いや神の視線を受けると1つや2つのカルマ「業」を持っているのだろう。母も私たちも知らずして犯しているカルマがあるのだと思い、他人や自分を時には許さないといけないのか? 先に「清廉潔白」という一言を送ったが、その裏には「忍耐」という言葉が背中合わせになっている。色々なことを忍耐強く頑張りぬいた母、それは私たち子供3人を育て上げるためだった。記憶として蘇る幼児期から1つ1つ浮かんでくる母の言動、私にかけてくれた愛情、母が私にかけてくれた愛情は認知症になってからもそのうっすらとした微笑みからしっかりと感じていましたよ。 母さん、有難う!



今までは肉体を持った母親として私を育て上げ、愛情をかけてくれました。もう目の前に見える体を持った母としては存在していないけれど、それ以上に確かに私の記憶の中で、この心の中で、私が生きている限り生きています。どうか、霊界から私や孫たちを見守って下さい。


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