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母を亡くして ー 平成29年の暑い夏 その① [日記・雑感]

母が亡くなった。


92才だった。80才になる前に認知の症状が出始め、半年か一年後に父が亡くなると一段と症状がきつくなっていった。それから数年は【ケアハウス】にそのままいることができたが、認知症独特の言動が激しくなり、【グループホーム】に移らざるを得なくなった。ここのホームでは9年ほどお世話になったが、今年平成29年1月7日、体調が悪くなり救急車で主治医の病院に運ばれ、今月7月27日夜8時頃に息をひきとる迄その病院にずっと入院していた。入院中はベッドに横になったまま、つまり「寝たきり」だった。



5月の連休にお見舞いに行くと、目をぼんやりと開けていて、手を握ると寝たきりの高齢者とは言えないくらい強く握り返して、しかも途中で手を緩めたりやめたりはせずしっかりと握ったままで、こちらが上下に振るのを嫌がらず、一緒に見舞いに行った次姉も私も内心驚いた。昔から、母は器用で、よく家事労働をしていたせいか、親指は外側にカーブを描いて反っていたが、晩年になるにつれさらに反ってきたと思う。70才以降の母に会うたび、これは栄養の摂り方のせいなのだろうか、老化のせいなのかと、母の長年よく働き続けた血管が見える両手を見ながら思っていた。母は、私が物心ついたころからほとんど丸々と肥えた事はなく痩せていた。


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6年数ヶ月前までは、何とか私の顔が分かり、施設に会いに行くと「ああ、〇〇さんね?」と微笑んで細く柔い声で呼んでくれた。母は、私や姉たちが思春期を迎えた頃からか、娘に「〜さん」と呼んでいた。気が強く、間違ったことは許さないという厳しさはあったけれど、それを外すと優しい子供思いの母だった。父は母に劣らず子供思いの愛情深い人だったが、そこは男親なので、手紙や書き物以外では「〜さん」付けはしなかった。



平成23年5月、それまでいた母の住む市内から仕事の都合で遠い県外に私が移ると、予想していたように、私が会っても微笑むだけで誰かは分からなくなっていた。そんな母と若い頃や中年の頃の気丈な母が二重に見えると、本当に切ないものがあった。短いような長いような母の人生の移ろい。魂はともかく、人の肉体は個人差はあれ変化し衰えて行くものだと自分も同じ年数を重ねながら認めざるを得ない現実。心のある部分では、母が幼い頃生き別れた実父のことを封印し、姑は居なかったものの、舅や小姑に辛くあたられた結婚生活。敗戦後の引き揚げから極貧は味わっていないものの人生のほとんどを占めた経済的な不安。認知症になる以前も、それ以後も、一人の老いた女性、お喋りでなくなった母の顔を見る悲しさ。しかし、可哀想なのは、見ている私の方だったかもしれない。片親育ちを味わい、台湾で結婚生活が始まったものの、終戦の翌年、昭和21年に博多に引き揚げてゼロからスタートした生活、見合い結婚した父との不和(これについてはいつかで述べるかもしれない)、長年安定しなかった経済的貧しさ、こんな中で独りよがりはあったけど精一杯生きぬいた母の苦労に十分に報いられなかった娘だから。


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40、50代の頃、肩や腰の痛みを抱えていたり、色々体調の悪い時があったにせよ、よく喋り、家事や一時期やった旅館の仕事を日々こなしていた元気な母の姿が蘇ってくる。写真はやはり有難いものだ。戦後間もない昭和20年代から時折撮って残してある写真のおかげで、父も含め、母や私たち家族のその時々の思い出スナップを見ると、甘酸っぱい気持ちになる。時折、そして今回のように写真を取り出し眺めていると、過ぎてしまった過去の出来事や様々な感情をその度に追体験できる。殆どの人は皆それぞれに何らかのトラウマを抱えていると私は思うが、母も心中にしっかりとトラウマを沈めて、その頑な気持ちが父との不和を強めていたと、自分も高齢者に近づいていくにつれしみじみと理解出来た。戦後、昭和2,30年代にまだ着物姿で私たち三姉妹を育ててくれた母の頑張り、それを支えたのは大正末期生まれのあの時代の女性の精神力だろうか? 母独自の気丈な性格によるのだろうか? いずれも断定はできないし、いずれも否定できない。ただ、母の頑張り、苦労には感謝するのみです。


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